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SS:白銀れみゅう



恋慕は華に捧げましょう

温かい陽の光が包み込む。穏やかに時が流れてゆき、心地良い眠りを誘う。
そんな昼下がり、人里から離れた杉林からは可愛らしい歌声が響く。
澄み渡る青天と同じ色の着物と肩までの黒髪を、柔らかく揺らしながら軽やかな足取りで駆ける。華奢な印象を受ける身体ではあったが、その細い足は山道を難無く越えていく。軽く走ったためか、白い肌がほんのりと赤く染まっていた。
彼女…葵の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
古びた地蔵の横を会釈して通り過ぎたが、彼女は脇目も振らない。
杉林の終わりが見えた時、葵の笑みが明るくなった。着物を揺らして陽の下へ飛び出し、杉の木によって遮られていた光を身体一杯に受ける。広く開けたその場所で、葵はきょろきょろと辺りを見渡した。草の上で寝転がっている大きな獣を見つけた時、彼女の笑みが一層深くなった。呼吸を落ち着かせつつ歩み寄る。
人を覆い被さることは出来るだろう大きな犬だった。そのしなやかな身体が筋肉で覆われているのは、一目瞭然である。
動物とは明らかに違う異質な存在…そう、人々が恐れている『妖怪』だった。それも、『山狗』という凶暴な種族である。
しかし、太陽には不釣合いな漆黒の身体は陽の下にごろりと寝転がっていて、静かな呼吸も聞こえてくる。温かい光に誘われて、眠くなったのだろうか。ふわふわと揺れる尾を見つめながら、葵は笑みを零した。
大きな身体の横にしゃがみ込むと、白く細い腕を伸ばす。すると、山狗はパッと深紅の瞳を開けて葵の姿を見た。彼女だと確認すると、白い指先へ黒い頭を傾けた。恐ろしい姿には想像もつかない仕草に、葵はクスクスと笑い、優しく頭を撫でた。


葵が山狗と出会ったのは、凍てついた月が印象の夜だった。
遅くなった帰り道、彼女は山賊達に追われていた。暗闇で動き回ることに慣れている山賊達から逃げ切れる訳が無く、葵は追い込まれてしまった。下賎な笑みを浮かべてにじり寄ってくる男達に、葵の恐怖と絶望は最高潮にまで達していて逃げることさえ忘れていた。そして、一人の男が細く白い腕を乱暴に掴んだ。
その時、凍てついた月を背にして現れたのが…山狗だった。
助けてくれたのではなく、恐らく自分の縄張りを荒らされたく無かっただけなのだろう。しかし恐怖で固まっていた葵にとって、それは正しく天の助けだった。山賊達が逃げた後、彼女は山狗に何度も感謝の言葉を囁いた。透明な涙を零しながら。
恐ろしいという概念は無く、ただ目の前に佇んでいる山狗に感謝の気持で一杯だった。
泣きながら感謝の言葉を囁く葵に、不思議なことに山狗はただじっとしていた。彼女の涙と震えが止まるまで。

それが、葵と山狗の出会い。以来彼女はこうやって、人里から離れた場所で山狗に会いにきている。普通妖怪の方も人間を避けるのだが、山狗は違った。彼女が会いに来るのを喜んでいるようだった。その証拠に、黒い尾が横に振れている。
何を考えているのかは分からない。いつ自分が噛み殺されるかも分からない。危険な状態であるのは葵も理解していた。
しかし、ただゆっくりと流れていく時間と、山狗の温もりを感じていられることが、葵にとってもっとも心が休まるひと時であるのは確かであった。自分の膝の上に頭を乗せて寝ている山狗の横顔を見つめながら、葵は穏やかに微笑んだ。

持ってきた本を読みながら、片方の手は山狗の頭を撫でる。しかし葵の瞳は文字に釘付けで、彼女の意識は山狗よりも本に注がれている。それが面白くないのか、山狗は葵の読んでいる本の上に顎を乗せた。びくりと身体を揺らし、葵は困ったように笑った。
「…これじゃあ読めないじゃない。」
山狗の顎の下にある本を引っ張ろうとするが、それを察してか、山狗の頭に力が入った。どうやら、本を読ませないつもりらしい。ぐぐぐ…と無言の応戦が続く。しかし、どう考えても山狗の力に人間が敵う訳が無い。ただでさえ、葵の腕は細く華奢なのだから。はぁ…と溜息を漏らし、本から手を離して代わりに山狗の漆黒の身体に纏わり付いた。しかし彼女の桜色の唇は、可笑しそうに弧を描いていた。
山狗は本を読むのを邪魔したのではなく、かまって欲しかったのである。凶暴な種族の割には、可愛らしい一面を持っている。
「ごめんね。この本面白かったから、つい…」
申訳なさそうに言うが、顔は笑っていて内心を隠せていない。山狗は訝しげに深紅の瞳を細めた。しかし、葵の瞳に自分の姿が映っているのを確認すると、山狗は頭を退けた。葵は下敷きになっていた本を持ち上げると、優しくその文字をなぞった。
「…知ってた?花にも、言葉があるってこと。」
そう語りかけると、山狗は不思議そうに首を傾げた。葵はクスクスと笑って続けた。
「花にはそれぞれ意味があってね、どれも違うの。例えば、百合は『純潔』とか『無邪気』っていう意味があるし、水仙は『自己愛』…だったかな?この本はね、色んな花の言葉が書かれているの。」
葵は黒曜石の瞳を無邪気に輝かせて語る。白い頬がほんのり赤く染まっていて、その表情は楽しそうだった。
そんな葵を、山狗は食い入るように見つめていた。まるで穏やかな微笑みに見惚れるように。彼女はその視線に気付いてはいなかったが。
「…素敵よね。それぞれの花に、それぞれの違う言葉があるなんて。ここにひっそり咲いている小さな野花にも、きっと言葉があるんだろうなぁ。」
傍らに存在している、小さな花。葵は慈しむように見つめ、その小さな花弁を白い指でくすぐった。
「小さな花にも言葉があるなら、私達が生きているのも理由があるんだろうね。」
この広い空の下、生きているものは沢山いて、私達人間もその中の内のひとつ。草や花、妖怪も同じである。
掌に収まってしまうほどの小さな花にも、それを意味する言葉があるというのなら、この大地の上で生まれた全てのものには生きる理由というものが存在しているのだ。この空を見上げているもの全てに…。
「…なーんて、柄にも無いこと考えちゃった。でも、花言葉っていいなー。」
クスクスと笑みを零しながら、葵は青天から視線を外して隣に寝ている山狗を見た。
彼女はそこで、一瞬思考が止まってしまった。
寝ているだろうと思っていた山狗が起き上がり、彼女が開いている本を覗き込んでいたのだ。葵は本と山狗を交互に見る。何度見ても見間違いではなく、山狗の深紅の瞳は確かに本の文字を追っていた。葵は思わず声を漏らす。
「…もしかして…読みたいの?」
深紅の瞳を覗き込んで問えば、山狗はそれを肯定するように一回だけ吠えた。ますます葵の表情が驚愕に変わる。まさか、山狗が本に興味を持つとは…でも何故…?彼女は疑問と驚愕で揺れていた。しかし、山狗のキラキラした瞳と横に大きく振られている黒い尾を見た瞬間、それはすぐに消えた。浮かんできたのは、暖かい喜びだった。山狗が自分の好きなものに興味を示してくれたのは喜ぶべきことであるし、何より、山狗と同じ時間を過ごすことが出来る。
葵はニコニコと笑いながら、膝に置いてあった本を草の上へと移した。待ちきれなかったように、山狗はそれを食い入るように覗いた。深紅の瞳が、文字を追いかけて上下に揺れる。
葵はそれを見ながら、ほんの少しの疑問を感じる。妖怪は、人間の字を読むことが出来るのだろうか。いや、目の前でそれをしている妖怪がいるからそれは真なのだろうが…。やはり、生きた年月と培われた知識なのか。人間では決して知ることの出来ない事柄を、妖怪は理解していることが多いと聞く。その逆も然り。恐らく、目の前にいる漆黒の山狗もそういったものの一人なのかもしれないな…と葵は考えた。

生きた年月の違い…その確かな現実が、葵のぼんやりとした頭の中に重く入り込んできた。何となく切ない想いが溢れて、それを振り切るかのように彼女は山狗の身体にもたれかかった。漆黒の身体には、陽の匂いが溢れていた。落ち着くはずの匂いなのに…今は、それが妙に心を締め付ける。瞳を伏せて、ぽつりと言葉を漏らした。
「…私が貴方の言葉を理解出来れば…話が出来るんだよね…。」
山狗は、人間の言葉も文字も理解しているだろう。しかし私は、人間以外の言葉を理解出来ない。出来ていれば、目の前の山狗とも会話が出来ているのだ。
感じずにはいられない…生きる世界の違い。時折、重くのしかかるのだ。こんなにも近くにいるというのに、遠く離れているような錯覚。何故だろうか?何が私を満たさないのだろうか?葵は考えを振り切れないでいた。
今まで葵の腕に抱かれていた山狗が、突然大きな声で吠えた。葵はそこでようやく現実に引き戻され、山狗の深紅の瞳を見つめた。
その瞬間、唇が何かに覆われた。視界一杯に広がる漆黒の毛と、唇に感じるくすぐったさ。
葵は山狗が自分に口付けているとすぐに分かった。口付け…というよりも、ただ口先を彼女の桜色の唇に押し当てているといった感じではあったが。葵は驚愕で目を見開くが、山狗をすぐに離れて、彼女の白く柔らかい頬をペロリと舌で掠めた。
葵はすぐに分かった。山狗が、自分を心配しているのだと。胸の鼓動は高鳴っていたが、あの口付けはきっと冗談でやったのだ。彼女は自分にそう言い聞かせた。
葵の顔から、憂いの色は消えていた。変わりに浮かんだのは、温かい笑顔だった。陽の光に映える、あの美しい笑顔である。
…そうだよね。生きた時間は違うけど、今この瞬間一緒に居るんだから…いいよね。
先程まで考えていた暗い考えを、記憶の片隅へ追いやる。そして、それを埋め合わせるように山狗の温もりを感じた。
葵が穏やかに微笑む中、山狗の表情は何処か固かった。深紅の瞳は、遠い遥か先を見つめているかのようだった。

いつの間にか、白い陽の光が緋色なっていて、青天は茜空に塗り変わっていた。
葵は草を払って立ち上がると、山狗に向き直った。
「今日はもう帰らなきゃ。また来るね。」
にっこりと微笑むと、山狗の頭を優しく撫でた。気持良さそうに鳴声を漏らし、彼女の白い手に甘えた。
草の上で広がっている本を見つけ手に取ると、葵は本と山狗を再び見比べる。そして、静かにその本を差し出した。山狗の深紅の瞳が大きく見開く。
「…貸してあげる。読みたいんでしょ?」
葵は、山狗が真剣に読んでいたのは分かっていた。花が好きなのか、それとも人間の本を読みたかったのかは分からないが、山狗が興味を示したのは確かである。出来るなら、それを断ちたくない。読み途中ではあったけれども…。
山狗は葵と本を暫く見つめてから、大きな口を開けて、その本を咥えた。
葵は満足気に微笑むと、家路へつこうとする。しかし、いつも感じている視線が背中へ突き刺さる。
振り返れば、山狗がジッと此方を見つめていた。帰る時、いつもこんな瞳で見つめてくるのだ。寂しいような…悲しいような…或いは、もっと別の何か。だから葵も、ついつい足を止めてしまう。
しかし、今日は何か違った。葵の中で違和感を覚える。その表情はあまりにも真剣で、瞳の奥に熱い何かを見つけたのだ。相手は山狗で、しかも友人のように接してきたのに、何故か…頬が熱くなった。
それを誤魔化すように、葵はぎこちなく笑いかけると、杉林の中へ入った。その素振りは、まるで逃げるかのようだった。
「…来ちゃ駄目だよ!貴方は貴方の住む場所に戻ってね!」
何でそう言ったのか分からないが、あの瞳を見ていたらそう思ったのだ。ああ、この人は私の村を見たいのだ、と。
だが、来て貰うわけにはいかない。連れて行ったら、人間の里に来たら…きっとこの山狗の命が危ない。
それに…あの村は…あの村では…。葵はきつく瞳を閉じて、杉林を駆け抜けた。
山狗の視線を振り切るようにただ我武者羅に走り、周りの音など聞こえなかった。聞こえないようにした。
だから、気付かなかったのだ。

「…葵」

低い青年の声が、自分の名前を呼んでいた、なんて…。

杉林を抜ければ、普段見慣れた田園が広がる。農作業も丁度終わったのであろう人々が、汗を拭きながら村へ向かって歩いていた。
葵は一度大きく息を吸うと、ゆっくりと足を動かした。途端、人々の動きが止まった。彼らの視界に、葵の姿が写ったからである。屈強に笑っていた顔は急に強張り、その瞳は…まるで化け物を見つけたように侮蔑と恐れが含まれていた。
葵はそんな彼らに気付いている。友好的な笑みを浮かべて軽く会釈してみるが、彼らは走り去るように村へと入っていった。
温かい夕暮の光とは裏腹に、その場の雰囲気はまるで絶対零度の世界のようだった。
葵は、その理由をしっかりと理解していた。だからこそ、彼女は何も言わなかった。華奢な身体でその視線を受け止め、耐えた。握り締めた拳を胸元に置き、彼女は再び歩き出した。村から少しだけ離れた場所に存在する家へと向かって。
足元はしっかりと大地を踏みしめていたが、その表情は…悲しみを湛えていた。

葵が人々から避けられる理由…それは、山狗と会っているため。
彼女が妖怪と会っていることを、誰かが目撃したのだろう。それはたちまち村に広がり、彼女は人々から恐れられるようになった。
あの子は狂っている…あの子は村を滅ぼす…あの子は私達を殺す…。口々に呟かれる罵りの言葉と冷酷な侮蔑の視線が、外を歩けば飛び交う。もう、日常茶飯事になってしまった。慣れてしまったが、それ以上に悲しいのが…幼い時から可愛がってくれた人々が、どんどん離れていくことである。
「妖怪と会っている」…ただそれだけのことは、決して一言では終わらせない現実を生み出した。

けれど、葵は一度でも、山狗を恨んだことも疎んだこともない。自分自身が望んで招いた結果であるし、何より、山狗の存在が唯一の救いだったからだ。
罵られることに慣れても、孤独に慣れることは決してない。一人だという現実を深めるだけだった。だから、すぐ傍にある温もり…確かな存在…山狗は、葵にとって大切なものだった。大切…という範囲では語りきれない。それくらい、葵の人生に山狗は欠かせない大切な存在なのだ。其処に種族の違いなどない。山狗に会ったこと…後悔はしていない。

銀色の月が闇夜に現れたとき、葵は家の外に居た。昼間とは変わって、風は肌寒かった。肩に掛けた上掛けごと華奢な身体を抱きしめる。
山狗は、何をしているのかな。葵の脳裏に浮かぶのは、月明かりの下で自分が貸した本を読む漆黒の大きな身体だった。
彼女は笑みを零し、頬を緩ませた。桜色の唇が弧を描く。
「…そうだ。明日行くとき、何か持って行こうかな。」
丁度、山狗は花言葉の本を読んでいる。なら、花を摘んでいこうか。葵は楽しそうに微笑みながら、明日摘んでいく花のことを考えていた。
そろそろ身体が冷風に耐え切れなくなり、震えだした。葵は夜着を翻し、家の中に戻る。
床に入るときも、入った後も、明日のことや山狗のことをずっと考えていた。あの人と会った後は必ず穏やかな眠りにつける。葵は口元に笑みを浮かべ、静かに瞼を下ろした。
いつの間にか、昼間にあった山狗の不可解な行動や視線のことなど、すっかり記憶から消え去っていた。

葵の頭の中には、明日のことばかりが巡っていた。
だからなのか。彼女が眠りにつくまで、山林から突き出た崖から何かがずっと見ていたのに気付かなかった。
暗闇に浮かぶ、大きな何か。それの瞳は闇の中でもキラリと光り、ただ真っ直ぐに葵を追っているようだった。彼女が家に入った後、暫くその足跡を見つめていたが、大きな身体を起こすと、闇に埋もれた杉林へと入っていった。その一瞬見せた瞳には…怒りや絶望にも似たものが、見え隠れしていた。

雲が青い空を覆っていた。晴天には変わりないのだが、もしかしたら曇りに変わってしまうかもしれない。昨日とは違う顔を見せてくれた空を仰ぎ見ながら、葵は山狗の元へ向かった。
杉林の中で、葵はある花を探しながら向かった。昨晩、ずっと考えていた花を。
湧き水が溜まって出来たまるで小さな水田のような所に、その花はいた。葵にパッと明るい笑みが差し、軽い足取りで駆け寄った。すぐ脇に屈むと、白い指先でその小さな花を突付いた。
その花は、蓮華草だった。淡い紫色の花弁が何枚にも重なり合い、その姿は蓮を思わせる。美しい紫色に見とれながらも、葵はそれを優しく摘み取った。両手で蓮華草を包み込み、それを愛しそうに見つめる。
「…二本で、いいよね。あんまり沢山摘み取ると…可哀想だもんね。」
やんわりと握り締め、葵は着物を翻して山狗の元へ向かった。
白い頬がほんのりと赤く染まっているのは、走っているためだけではなかった。
山狗が蓮華草の花言葉を知っているなら、私の気持ちに気付いてくれるはず。今までずっと想っていた気持ちに。
そう考えると、何だか気恥ずかしいような気持ちになりくすぐったく感じる。花の言葉で会話するなんて、まるで貴族の逢瀬みたいで、心が躍った。
白い手で握り締めた蓮華草の花言葉…それは、『あなたが来て下さると私の苦しみが和らぐ』。山狗へ伝えたい、深い感謝と喜びだ。
分かってくれると、嬉しいな。淡い紫色の花弁を優しく撫でる。その時の葵の表情は、まさに年相応の女らしさが溢れていて、一途な慕情が彼女の微笑みをより美しくさせた。

…しかし、まさかこの後、彼女が最も恐れていたことが起きてしまう。彼女の美しい微笑みに反して、群青の空には厚い雲がたなびき始めていた。太陽さえも飲み込もうとする雲…それは、まるで何かを暗示するようであった。


薄暗い杉林を抜けていつもの場所に出た。遠目でも分かる太陽に不釣合いな漆黒の大きな身体を見つけ、葵はふわりと微笑んだ。軽い足取りで近付き、またいつものように声を掛けようとした。
…しかし、足がピタリと止まった。
山狗の背中からは、今まで感じたことのない空気が溢れ出ていた。チクチクと肌を刺激する、冷たい何か。葵の表情から笑みが消えた。自然と白い頬が引きつる。
ゆっくりと再び歩き出す。途端、山狗が弾けたように振り返った。普段から見ていた無邪気な瞳が其処には無く、葵は今度こそ身体が凍りついて動けなくなった。
無邪気に輝いていた深紅の瞳は、まるで鬼神のように鈍くぎらついていた。眉間や鼻に皺がよっていて、鋭い牙をむき出して唸っている。目で見て分かる、刃のような怒りと殺意。それが、真っ向から葵に向けられた。
無邪気な山狗の姿など、存在しなかった。怒りに染まった血のような瞳は、まさに妖怪そのもの。人間を恐れさせて止まない、凶暴で残虐な山狗の姿があった。
葵は、全く動けなかった。生まれて初めて、真っ向から殺意を受け止めたためでもある。しかし、葵が凍りついて動けなくなってしまったのは、殺意だけのせいではなかった。
あんなに、あんなに親しく戯れていた山狗が、突然牙をむいて怒りを露にした。その信じたくない現実が、葵の頭に石のように重く圧し掛かった。
何故?何故そんな顔をするの?私は貴方に何かしたの?
疑問が泉のように湧き出る。しかし、喉は恐怖で凍りついて彼女の疑問は声にならなかった。透き通った白い肌が、蒼くなっている。
葵はそれでも、何処かで信じていた。これは悪い冗談なのだと、度の過ぎた悪戯なのだと。そう言い聞かせるように、胸元に置いた小さな手に力を入れる。両手に収まっていた蓮華草が、きしりと音を立てた。
「…ねぇ…どうして…そんな…風に…」
恐怖の上に笑みを重ねた。しかし、山狗は唸り声を一層強くあげ、眉間の皺を増やした。それが余計に、葵の想いを揺るがす。
「…ねぇ…何で…?私…何かした…?」
込み上げてきそうな涙を必死に飲み下し、怒りに震える山狗を見つめた。彼女は思考を何とか回転させながら、何とか考えていた。目の前の山狗が、自分に牙をむく理由を…。
そして、ふいに気付いた。昨日の帰り際を…話していたことを。

―…来ちゃ駄目だよ!貴方は貴方の住む場所に戻ってね!

…まさか、あれのせいなのだろうか。しかしあれは山狗のことを疎んで言ったのではなく、人里に訪れれば必ず山狗の命が狙われてしまうからそれを防ぎたいためであって、それ以外の理由などない。…まさか…
「…村に…来たの…?」
ぽつりと漏らした言葉に、山狗は過剰に反応を示した。先程よりも更に鋭くなった視線と、色濃くなった殺意。それはつまり、肯定を意味している。
葵は、頭から冷水を被ったかのような錯覚に襲われた。まさか山狗は、村人達の反応を見て、それが一方的に山狗のせいだとあてつけられたと考えているのだろうか?だとすれば大変間違いで、葵は一度でも山狗のことを迷惑などと思ったことはない。
凍っていた喉が急に開放され、葵は上ずった声を押し上げた。
「…違うっ!あれは…ああ言ったのは、私は貴方が…」
何とか誤解を解こうと声を荒げる。話さえ聞いてもらえれば、山狗は分かってくれる。分かってくれるはず。
距離を縮めようと足を動かした瞬間…山狗がついに、彼女の僅かな希望を打ち砕いた。
近付こうとする葵に向かって、荒々しい凶暴な咆哮を吐き出したのだ。辺りの大気や木々さえも揺るがしたそれは、葵に真っ直ぐにぶつけられる。その叫びは、完全に、葵を拒絶することを表した。
瞬間、葵の中にあったもの全てが砂礫のように崩れ落ちた。過ごしてきた穏やかな日々も、今もはっきりと残る甘える声も、すぐ傍にあった確かな温もりも、一人ではないという安心も…全て、音を立てて崩れてしまった。
孤独の中で生き抜く支えとなっていた山狗との思い出が、氷付けにされて砕き散ってしまった。
途端に、抑え込んでいたものが止めどなく溢れ出てきた。目尻が急激に熱くなり、視界が歪む。悲しみと苦しみが、透明な涙となって弾けたのだ。無遠慮に白い頬を濡らしていき、地面に染みを作る。
零れ出そうになった嗚咽を両手で押さえ、葵は絶望と悲しみに打ちひしがれながら、着物を翻した。山狗の瞳を見ることが出来るわけがなく、彼女は零れ落ちる涙を風に散る花弁のように振り乱しながら走り去った。
どうしようもない、人間と妖怪の価値観と、山狗の怒りに染まった血の瞳に、葵はただ嗚咽を抑えていることが精一杯だった。

ふわり…と地面に落ちた蓮華草は、葵と山狗の間に、静かに横たわった。それはまるで、二人の間の絆が断ち切れたことを現しているかのようだった。葵が伝えたかった言葉は…もう届かなくなってしまった。

山狗は葵が走り去った後姿を、ジッと見つめていた。先程まで怒り狂っていたのに、今の山狗の瞳には殺意が消えていて、葵が抱えてしまった絶望と悲しみと同じ色が浮かんでいた。しかし、大きな漆黒の身体を起こした時には、いつの間にか怒りがまたふつふつと込み上げてきているようだった。
山狗は葵を追いかけるわけがなく、背を向けようとした。しかし、山狗の視界の片隅に、淡い紫色がぽつりと映った。蓮華草の傍まで近付くと匂いを嗅ぎ始め、その花から葵の匂いをすぐに嗅ぎ取った。怪訝な瞳をしたが、脳裏に葵の悲しみに染まった泣き顔が焼き付いていたのだろうか…それをゆっくりと咥えると、杉林へ消えた。

青天はいつの間にかなかった。厚い雲が覆って、太陽を遮っていた。まるで、葵と山狗の感情が入り混じっているようだった。

葵の悲痛な嗚咽が、家の中で木霊した。
信じたくない現実、砕け散った絆、どうしても伝えたかった感謝の言葉…。彼女の様々な感情が激しい嵐となって、涙が止めどなく零れ落ちた。板張りの床に、乾かない染みを作り出した。
慣れぬことの出来ない孤独の中で、山狗だけが唯一の支えだった。それが、このような最も恐れていた形で崩れ去るなんて…。
葵は激しく泣きじゃくった。止まらない涙と身を沈めてしまいそうになる悲しみと絶望…朽ちてしまいそうな心と身体は、ずっと涙を流すことを望んだ。投げ出した華奢な身体を受け止める床は…酷く冷たく、余計に、それをかきたてた。
差し込んでくる光は、無常にも、慰めにならなかった。


嵐のような涙と悲しみが止んだのは、その翌日だった。
いつの間にか眠ってしまったのだろう、葵の視界を白く染める朝焼けが、時間が進んだことを伝えた。
ずっと泣いて落ち着いたのか、頭の中は嫌にすっきりしていた。すっきりしていたというよりも、何も残っていないと言った方が正しいかもしれない。不自然なほど穏やかで、まるで感覚が麻痺しているかのようだ。
しかし、葵の瞼は赤く腫れ上がり、その頬には涙の痕がうっすらと残っている。彼女がずっと悲しみにくれていたことを如実に現していた。時間が経った今もなお、黒曜石の瞳は潤んで揺れていた。
身体をゆっくりと起こすが、その身体はまるで鉛のように重く感じた。あれから何も食べていないこともあるのだろうが、恐らく、未だ残る山狗からの明確な殺意とそのときの悲しみのせいなのだろう。はっきりと蘇ってくる山狗の怒りに染まった瞳…振り払いたくてもこびりついて離れない。

頭の片隅に浮かぶ言葉…それは、何故こんなことになったのかという自分に対する疑問だった。
幾度となく自分に問いかける。何がおかしかったのか。何を間違えたのか。何故山狗を怒らせたのか。
自分では決して分からない理由…しかし、あえてその理由の所存を求めるならば、全てが自分にあったのだ。自分が何かしたから、こんなことになった。全て、自分が…。
葵は両手で顔を覆った。こんなときに限って思い起こしてしまうのは、山狗の怒りに染まった顔ではなく、あの穏やかな時を共に過ごした温かい記憶ばかりだった。
悲しいことに、いかに自分の中で山狗が大切な存在だったのか、再確認してしまった。今まで麻痺していた感覚が、軋みながら元に戻っていく。
…会いたい。許されるのならば、もう一度会いたい。


いつの間にか、また静寂に包まれた闇夜が訪れていた。
ただぼんやりと窓の外を見つめ、虫の鳴声に耳を傾けていた。それでも、葵の頭の中には山狗だけが残っていた。
会いたいという想いが一途に宿る。しかし、その一歩を踏み出す勇気がない。山狗が自分を嫌がって逃げたらどうしよう?自分が会いたくても、山狗が会いたくなければ意味はない。
葵はそれを振り切るように立ち上がると、大袈裟な動作で上掛けを羽織った。戸に掛け立ててあった棒を退かすと、外へと出る。肌を撫で上げる冷たい風は、迷いのある葵にとって、思考を正しく回転させる良薬になった。

昼間の延長線である雲を、葵は見上げる。
…突然牙をむかれ、吠えられ、噛みつかれそうになったというのに、不思議なことに葵の中に嫌悪感はなかった。山狗を、恨めないのだ。それがどうしてか、葵もよく分からなかった。ただ確かなのは、今無性に山狗の顔を見たいという想いが募っていることだけである。
胸に穴が開いたような、何か大切なものを忘れたような、何かを思い出せないような…そんな喪失感が、心を襲う。
何かが足りない。何か大事なものに気付かなきゃいけないような気がするのに、その最初の文字すら浮かばない。
…何なのだろうか、このもどかしい気持ちは。葵は苛つき、家の中に戻ろうかと考え始めた。

その瞬間、一陣の風が吹き抜けていった。葵の髪を弄ぶと、また何事もなかったかのように再び静寂が舞い戻る。しかし、葵の胸は震えていた。
頭で考えるよりも、身体がまず動き出した。心臓がいやに高鳴り、葵を奮い立たせるかのようだった。
しかし、辺りには何もない。見慣れた田園しかなかった。葵の予感していた、何者かの影すら見当たらない。気のせいなのだろうか。しかし、何かの存在を感じた。葵は首を傾げながら、忙しなく辺りをうかがう。
そして、視界の片隅に映ったものに、葵は息を呑んだ。砂利道の上に無造作に置かれている小さな本…それは、紛れもなく葵が山狗へと貸したものだった。
弾けたように駆け寄ると、それを拾い上げて胸へと置く。静かだった鼓動が高鳴りだし、抑揚のなかった顔に以前の葵の表情が浮かんできた。あの人が、近くにきた。その事実に戸惑いながらも、嬉しさを感じた。
しかし、姿を見せずに立ち去った。しかも、本を置いて。これはつまり、もう葵には関わらないということなのだろうか?僅かな温もりを宿した本は、答えてくれるわけがない。だが、もしそうだとしたら、私はどうしたらいいのだろう?
途方もない絶望と悲しみが、再び押し寄せてきた。本を胸にしまい込む。まるで、山狗を抱きしめるように。じんわりと伝わる温もりが、余計に切なくなってきた。
膝を地面に立て、腕をつく。とその時、指先に何かが当たった。ハッとして、涙で滲んだ瞳をめぐらせる。
そこにあったのは、二本の花だった。丁寧に向きを揃えて置かれたその花を手に取る。その時、肌寒さなど忘れていた。
瞳をこらして見れば、二本のうちの一本は黄色の水仙だった。もう一方の花は、記憶にない。鮮やかな美しい赤い色で、水仙とは違って小さな花弁である。それが寄せ集まり、まるで花束のようだ。それぞれの花の美しさに、思わず見惚れてしまった。
しかし、何故花を置いていったのだろう?葵は一瞬戸惑ったが、すぐに理解した。
置いていった花言葉の本、そして、二本の花。つまり、山狗は語れない言葉を、花で伝えようとしているのだ。
葵は慌てて本を開く。白い指先が震えていたのは、寒さだけではなかった。言いようのない熱いものを感じて、身体が震えていたのだ。名前の分かる水仙の花から言葉を調べれば、それはすぐに出てきた。同時に、葵の心臓が飛び跳ねた。
形良い唇が震えながら、その言葉を紡いだ。
「…“もう一度愛して下さい”…っ。“私の元へ帰って”…っ。」
華奢な身体が震え上がった。喜びと切なさが入り混じって、胸の奥から熱いものを呼び起こす。それは漆黒の瞳を濡らして溢れ出て、上気した頬を伝った。両手で口元を覆い、その文字を愛しそうに見つめる。
花に託された山狗の言葉…たった短い言葉の中に一体どれだけの想いがあるのかと考えると、嬉しさと切なさが葵を包み込む。
静かな空気に、葵の小さな嗚咽が響き渡る。彼女はそれを何とか飲み込むと、溢れ出ている涙を指で拭き取る。
もう一本の見たことのない花の調べに入る。運良くもその本には挿絵が入っているので、それを頼りに調べた。何度も何度もめくり、そして飛ばすという行為を続ける。その間も、鼓動は波打っていて、脳裏には山狗の横顔が映し出されていた。
そして、ピタリと手の動きが止まった。紙の端に描かれている花…それは間違いなく山狗が置いていった花だった。
急かすように文字を指で辿っていくと、その花の名が目に付いた。黒曜石の瞳を大きく見開いて、声を漏らした。
「…てんじく天竺…葵…?」
偶然なのか否か、その花の名前には自分の名前である『葵』という文字が書かれてあった。
呆けていたが、ハッとしてその花の言葉を探す。そして、それはすぐに見つかった。葵の心が、大きく揺れ動いた。

天竺葵…通常の白い花で、『真実の愛情』『決意』。しかし、それが赤い天竺葵であるならば、その言葉は…

『君ありて幸福』

葵は、二本の花と本を胸にかき抱いた。折れてしまいそうになるほど強く抱いた。
…偶然なんかではなかった。山狗は、自分のことを想ってこの花を置いていったのだ。言葉では言えない感情が溢れ出てくる。
…会いたい。会いたいです。貴方にあって、この気持ちを伝えたいです。
今までにないほど、葵は山狗に会いたいと願った。太陽に不釣合いなあの漆黒の身体に、抱き付きたいと願った。

葵の切ない想いが届いたのか。静寂に満ちていた大気が、突然震えた。葵は伏せていた顔を勢いよくあげ、空を仰ぎ見た。
切なく響く、獣の遠吠え。寂しげな音色が、葵の耳に確かに届いた。
…聞き間違えるはずがない。その声は、会いたいと願った、山狗のものだった。雲に覆われた天へと向かって、何かを切なく渇望するその人の姿が、まるで映像のように葵の頭の中へと浮かび上がった。
…あの人が、私を呼んでいる。
途端、葵は乱暴に灯りを手に持つと、駆け出した。その瞳に戸惑いはなく、真っ直ぐに山狗の姿を追っていた。闇に包まれた杉林も、葵は駆け抜けた。何度も転びそうになったが、それでも我武者羅に走り続けた。耳に届く山狗の声を目標にして。
自分を呼んでいる山狗だけを見つめて。

漆黒の獣は、葵が感じていた通り、月のない天へ向かって鳴いていた。まるで、泣き叫んでいるようだった。
まるで崖のようなところに一人佇み、遥か遠くに遠吠えを捧げるその後姿に、葵は声を掛けるか掛けまいか悩んでしまった。
しかし、お守りにするように抱きしめている二本の花を見つめると、大きく息を吸い、一歩前へと進んだ。
パキリ、と枝が割れる音に、山狗の耳がピクリと反応する。しかし、後ろを振り返ろうとはしない。その瞳は、未だ天を見つめている。
葵は、心に浮かんだままの言葉を、率直に紡いだ。
「村に来て欲しくなかったのは、貴方が嫌な目で見られると思ったからよ。」
山狗の肩がピクリと上下に揺れた。
「…貴方が嫌いだからとか…貴方のせいだと言いたかったんじゃないの…。ただ…心配で…」
徐々に嗚咽が込み上げてきて、葵は言葉を止めた。何とか飲み下そうとするが、そうすればするほど溢れ出してくる。
「…ごめん…なさい…」
静寂の中で、その言葉が響いた。葵は顔を伏せ、耐え切れなくなったように涙と嗚咽を零した。

…すると、身体全体が温もりに包まれた。ハッとして顔をあげれば、山狗の横顔が飛び込んできた。
山狗が、葵の華奢な身体にぴったりと寄り添ったからだ。いつの間にか冷えてしまった肌は、熱を吸い込んでいく。
懐かしく感じる山狗の温もり…葵は息を呑まずにはいられなかった。喜びもあったが、それと半々で戸惑いもあった。
山狗は、自分のことを嫌っているのではないのだろうか?頭の片隅に、自然と入っていた仮想。しかしそれを、すぐ傍にある温もりが揺るがしていく。
葵は声を掛けるか掛けまいかで迷い、何度も口を開けたり閉じたりを繰り返した。
すると、彼女の横顔を見ていた山狗の口が、ピクリと動いた。
「…俺に非があるというのに、何故お前は謝る?」
聞き慣れない低い青年の声が、辺りに響いた。それは勿論、葵の耳にはっきりと届き、彼女の瞳を大きく見開かせた。
今此処にいるのは、自分と山狗だけ。葵は波打つ鼓動を抑えつつ、ゆっくりと、それの方を見た。
深紅の瞳と、視線が重なった。
「…貴方…喋れた…の…?」
「…黙っているつもりだったけどな…」
山狗の顎から、言葉が飛び出す。その音色は、何処か切なさが込められていた。
しかし反対に葵は、腹が立った。黙っているつもりだったとはどういう意味なのだろうか?
「…どうして?私が話せたらいいなって言ったの、聞いていたでしょ?」
綺麗な声が怒りで震える。その様子を理解している山狗は、視線を逸らしながら、まるで独り言のようにぽつりと呟いた。
「…口を開けば…逃げると思ったからだ。」
葵の憤りが、急激に冷えた。恐ろしい山狗の横顔が、とても切なそうに見えたからだ。何かを恐れるように視線を合わせない山狗に、葵は、その心情を察してしまった。彼女の胸も、切なさに締め付けられる。
“慣れぬ孤独”…その一文が、葵の頭へと刻み込まれる。ああ、この人も…そうだったのか。
短い言葉へと込められた、山狗の悲痛な感情…葵はそれ以上喋らなかった。代わりに、山狗の首元へ寄り掛かり頬を摺り寄せた。

「…“あなたが来て下さると私の苦しみが和らぐ”か…」
山狗の低い声が囁いた言葉に、葵の華奢な身体がびくりと震えた。
「…勘違いしていて、すまん。」
たった一言、山狗は呟いた。葵の目尻が熱くなり、切なさと喜びが入り混じった涙が溢れ出た。嗚咽を堪えるように、山狗の首に抱きついた。それでも頬を涙が濡らしてゆき、より一層葵は頬を押し付けた。
まるで、あの頃のようだった。初めて出会ったあの頃に。泣きじゃくる葵を、山狗はただじっとしてそれが止まるのを待っていたあの頃に。今もまた、それと同じだった。謝罪と感謝の言葉を述べ続ける葵に、不器用な優しさで山狗は彼女を包み込む。
懐かしくも温かい、それでいて切ない。けれども、どうしようもないほどに愛しいこの想い。
葵は震える喉で、小さな声を振り絞った。
「…嬉しかったよ…っすごく…っ」
冷たい岩の上に置かれた二本の花。しかしその花からは、温かいものが溢れ出ていた。
「…嬉しかった…っ。会いたかった…っ。」
深紅の瞳が見開く。首の向きを変え、葵の瞳を覗き込んだ。涙で濡れた彼女の視線は、ただ山狗にだけに注がれていた。
山狗の冷静に保っていた感情が、揺るぎ始めた。ゆっくりと顔を近づけ、徐々に葵との距離を縮めていく。
葵は一瞬戸惑って目を見開いた。しかし、山狗の燃え盛る劫火のような瞳を見つめると、瞼をゆっくりと下ろした。
うっすらと開けられた桜色の唇に導かれるように、山狗は己のそれを重ねて、甘く蝕んだ。

延長線であった雲は、いつの間にか姿を消していた。銀色の月が顔を出し、静寂の世界を淡く照らしていた。

肌寒い空気の中に、熱を帯びた甘い吐息が零れる。
着物は既に全て脱ぎ捨て、月明かりに白い素肌を曝け出していた。葵は恥ずかしくて山狗を見られなかったが、反対に山狗はそれに見惚れていた。銀色の月さえも劣っているように思えるほど、葵の素肌は美しかったのだ。素肌だけではなく、豊満な柔らかい胸も、彼女の身体から溢れ出る甘い匂いも、艶めいた女の表情も。葵の全てが、山狗の欲望を掻き立てる。無意識の家に喉がゴクリと音を立てる。
我慢出来なかったように、葵との距離を埋める。彼女の背中と山狗の胸が密着して、互いの鼓動が大きく伝わる。
葵は寒さなど一切感じなく、まるで熱を弄んでいるかのようだった。
ひんやりとした岩に白い手をついてみても、あまり変わらなかった。それどころか、さらに熱を煽っているようだ。
山狗の湿った舌が、むき出しにされた葵の背中を這う。ゾクゾクとしたものが脳天を刺激しては甘い吐息が何度も溢れ出て、葵は羞恥心によって白い肌がほんのりと赤く染める。
初めての感覚に戸惑いを隠せない葵は、まるで救いを求めるように山狗を見つめる。しかし、熱にうなされ潤んだ瞳や艶めいた女の表情では、山狗の男としての本能を掻き乱すだけだった。白い肌を見ただけで眩暈が起きるというのに、そのような瞳で見られると精一杯の理性も砕かれてしまいそうになる。
山狗はそれを誤魔化すように、後ろから葵の唇を奪う。素早く舌を侵入させると、逃げる暇など与えず葵の口内を激しく犯す。
「…ふぅ…っんん…っはぁっんぅ…っ」
朦朧としていく意識。戸惑いから抵抗を試みるが、それはあっさりと終わってしまい、山狗に翻弄され続ける。
執拗に追い回していた舌を開放すると、葵は空気を吸い込む。
しかしそうしている間にも、山狗は上気した頬を舐め、首筋、うなじ、背中…と徐々に下がっていく。
華奢な身体は順応に感じて震える。岩についた腕に耐えるように顔を埋めるが、それでも甘い吐息が零れてしまう。
山狗の舌が、彼女の尻を掠めたとき、葵はハッとして顔をあげた。
「ねぇっちょっと待って…ひゃぁっ?!」
今までとは比べ物にならない痺れが、身体全体を駆け巡った。山狗の舌が、彼女の一番敏感な部分を刺激したのだ。其処からは既にとろりと蜜が溢れ出ていて、山狗の舌に絡まっていた。
足を閉じようとしたが、山狗の黒い前足が押さえ付けていて、それを拒む。
恥ずかしい。葵は真っ先に思った。誰にも見せたことがないというのに、山狗は其処をじっと見ている上に舐めている。そして、その厭らしい水音が辺りに響いている。
どうしようもない恥ずかしさに涙が零れた。
蜜壺の周りを丹精に舐めていた舌が、クチュッと音を立てて突然葵の中へと滑り込んできた。葵の身体がびくりと震える。
先程とは違う快楽に襲われ、まるで溺れるようになりながら、ひんやりとした岩にしがみつく。
山狗の舌が徐々に激しく動き出し、葵の内壁を擦った。脳天を刺激し続ける痺れに、彼女は嬌声をあげて応える。その可愛らしい声は山狗の耳にもしっかり届き、彼の興奮を煽り続ける。
「…甘いな。」
「っやぁ…そんなこと…んぁっ!い、わないでぇ…っ」
ほんの少し意地悪にそう言ってみれば、葵は快楽に酔いしれている表情のまま首を横に振る。その仕草が妙に可愛く、山狗は内心クスリと笑う。
葵の奥から、何かが込み上げてくる。いいようのないものが這って来て、彼女は岩にしがみつく。内壁が収縮し始め、山狗の舌を締め付ける。
すると、山狗は舌を引き抜いた。葵の身体が大きく震え、満たされない感覚に襲われる。快楽を求めている其処からは、蜜が溢れ出て彼女の白い脚を伝う。
疼く身体に戸惑い、葵は山狗へと視線を向ける。その瞳が物欲しげに誘っているように潤んでいることなど、彼女は気付いていない。山狗の中でドクリと鼓動が波打つ。
「…お前だけが気持ち良いなんて、ずるいだろ?」
ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべつつ、そう囁く。しかし、その笑みが余裕なさげに見えたのは気のせいだろうか?
そんなことをぼんやりと思っていると、急に視界が反転した。目の前に銀色の月と、それを背にした山狗の顔が映る。
カァッと顔が熱くなり、豊満な胸を隠そうとするが、山狗はそれを当然のように前足で岩に押さえ付け圧し掛かる。
白い脚の間に身体をねじ込むと、身体をくっつける。すると、葵の腹部に固くて熱いものが当たった。
それが何なのか理解したとき、葵の頬が赤く染まる。きょろきょろと忙しなく視線を動かし、ゆっくりと山狗へと向ける。
山狗の深紅の瞳が妙に熱っぽく葵を見ていて、呼吸が荒々しくなっていた。
葵は頬を赤く染めたまま、白い腕をあげて山狗の首にしがみついた。じかに感じる彼女の柔らかい身体に、山狗は息を呑んだ。
自分の欲望が大きくなるのが痛いほど分かった。
葵は恥ずかしがりながらも、言葉を一生懸命に紡いだ。
「だ、大丈夫…だと思うから…その…来て…いいよ…?」
いじらしく囁く葵の可愛さに、山狗の残していた一握りの理性は砕かれた。
性急に葵の腰を抱き、其処に欲望で大きく膨れた己のものをあてがい、一気に貫いた。途端に葵の唇から、嬌声が溢れ出る。
「きゃぁっ!んっあっはぅっ」
葵の中は想像していたよりもずっと狭く、熱く、心地良かった。山狗のものを十分に包み込んで、彼を快楽で溺れさせようとした。山狗の腰が震え、口から熱い吐息が漏れる。すぐに動き出して葵の中を堪能したかったが、彼女は今、痛みと格闘していた。
覚悟はしていた痛み。それでも、やはり山狗の欲望を受け止めるにはどうしても必要以上に痛みを伴う。何度も肩で呼吸を繰り返し、耐えようとする。ただ唯一救いなのは、山狗が十分に愛撫を施してくれたお陰で、多少なりとも余裕があったことだった。
自分の身体の下で、目尻に涙を浮かべて己の欲望を咥えている葵の姿は酷く艶かしく扇情的で、余計に欲望を膨らませる。その上、彼女が呼吸するたびに内壁が収縮を繰り返し、山狗のそれを誘い込む。
耐え切れなくなった山狗は、腰を揺らして彼女に溺れた。火傷のような痛みと目の前を白く霞める快感に、葵は翻弄される。
「あっんっふぅ…っあぁ…っ?!」
身体を岩の上に預け、葵は華奢な身体を震わせ、艶のある黒い髪を振り乱す。山狗が強く突き上げたり、掻き乱すように動かしたりするたびに、彼女の豊満な胸が動きに合わせてプルリと揺れ、山狗の視界で踊る。
葵は山狗に抱かれていることが嬉しく思い、歓喜で震えた。全ての五感で感じる山狗に、葵は愛しく感じ、涙で滲む視界に映る彼に微笑んだ。慈愛に満ちた、まるで聖母のような微笑みだった。
華奢な身体を赤く染め、溺れるように乱れる彼女が、山狗の瞳には一瞬『花』に見えた。人を惑わせ魅せて止まない、美しい『花』に。歓喜の涙が、まるで散り逝く花弁のようだ。
…いや、溺れているのは自分か。

山狗は葵の身体に密着すると、腰を小刻みに激しく動かした。彼女の最奥を掻き乱して、高みへと連れて行く。
ガクガクと揺られる葵も何となく理解し、語る代わりに彼の身体にしがみついた。
葵の中からも、何かが這い上がってきた。ゾクゾクと痺れを伴い、彼女の思考を奪い取るように。感じたことのないものに戸惑い、山狗へと縋りつく。
「あっあっんぅっぁあっ!ギュッてして…っあぁっ!」
葵が望んだ通り、山狗は身体を先程よりも密着させると華奢な身体を包み込んだ。
葵は振るえながらそれにぎゅぅっと抱きつくと、彼女の豊満な胸が山狗の胸を刺激し、更に中の壁も収縮させて山狗の性感帯を全て刺激した。
大きく打ち付け、身体に力を入れる。低い声を漏らしながら、山狗は葵の中に欲望を全て注ぎ込んだ。
突然流れ込んできた熱いものと這い上がってきた絶頂が絡まり、葵は声にならない叫びをあげて達した。
山狗の身体も葵の身体も快楽の余韻に震え、互いに荒々しい熱っぽい吐息を漏らす。
快楽に濡れた瞳を合わせれば、自然と唇が重なった。

着物に包まれた葵は、山狗に抱かれてウトウトとしていた。当の山狗は颯爽と眠ってしまっているようで、穏やかな寝息が聞こえてくる。しかし、夢の中にいながらも、彼の逞しい腕は葵の腰を抱いて離そうとしない。
葵は気恥ずかしくなりながらも、クスリと微笑む。
白い手をクイッと動かして、すぐ近くに落ちていた杉の葉を掴むと、それをすぐ隣に置く。満足気に見つめてから、また山狗との距離を詰める。まるで、二人の間に距離という言葉そのものが存在していないように。
「…好きだよ」
しっとりと囁き、山狗の胸に顔を埋める。彼女はすぐに、夢の世界へ足を踏み込んだ。
葵が愛の言葉を囁いたとき、山狗の耳がピクリと反応したことに、彼女は気付いていなかった。

空は明るくなり始め、暗い夜の終わりを告げた。

杉の葉……花言葉は“君のために生きる”

 



【 fin 】


-モドル-

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