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SS:ヴーク


 行動や思想を、俯瞰して見ることが可能な立場にいると、あらゆるものが合目的に連鎖しているように感じるものである。
 例えば、後世の人間が一種の無責任さを持って通史を眺めた場合、目に付く事象や行動が悉く、然るべき意図を有して配されているように思えるのだ。
 殊に、それが後世に大きな影響を与えた偉人なり、英雄に絡むものであれば、その印象は確固たるものになるだろう。

 大陸を支配していた聖殿国が崩壊に向かう中、東方辺境に於いて独立を宣言した黒旺という名のリザードマンは、その好例であった。
 元々、黒旺は聖殿国に仕えるリザードマンの一団を率いていたのだが、現王との軋轢により、国境警備の名目で東夷の地へ追放されたのである。
 結果から論ずるなら、その放逐は黒旺に領土と人材を与えることとなった。
 その契機となったのが、牙蟲と呼ばれる蠱術師との邂逅であったと、一般には言われている。

 牙蟲が大陸史の表舞台に現れたのは、星章騎士団を名乗る人間たちの暴力に晒されていた亜人の村を、短期間の訓練と急造の城砦化で救ってからである。
 それ以前の経歴は不明で、この種の胡散臭さは常にこの蠱術師について回っていた。

 黒旺と牙蟲の巡り合わせは、後世からすれば、卓越した武力の持ち主と希代の策謀家の運命的な邂逅であったのだが、当時、その様に考えている者はいなかった。
 東方辺境域での黒旺に対する認識は、流浪の戦闘集団の頭領に過ぎず、牙蟲にしても、亜人の村に居着いた奇妙な術者以上の注目はされていなかったのである。

 ただ、周囲の評価や目算はどうあれ、名もない亜人の村が、牙蟲と黒旺の出会いによって急激に変化していったことは事実であった。
 元々、村は亜人たちが積極的に作り上げたものではない。
 各地から流れ着いた亜人が、無気力に集まっただけの、掃き溜めのような場所であった。

 それを、異分子である牙蟲が出所不明の積極性でもって、普通の村落にしてしまったのである。
 廃屋同然の家々を修復し、水路を造り、畑を開墾したのであった。

 更に、村を襲撃した野盗や騎士団を撃退したことで、村に集まる亜人の数は倍増し、漂泊の職人も呼び寄せることとなったのである。
 村を訪れる遍歴職人や吟遊詩人を、牙蟲は大いに歓待した。
 新しく作った家を宿泊場所として提供し、質素とは言え、スープやエールも振る舞ったのである。
 それにより、村には物品や金や情報が集まることとなった。

 無論、村を訪れるのは真っ当な職人ばかりではない。
 野盗や無法者のような、奪うことを旨とするような輩も多かったのだが、彼らがその粗暴な望みを果たすことはなかった。

 何故なら、亜人の村には黒旺配下のリザードマンが駐留していたからである。
 黒旺が呼び寄せた一群であった。

 村を襲撃した略奪者は、その行為の代償を己の命で支払うこととなったのである。
 加えて、リザードマンは村の防御施設であった土塁や壕を更に増築し、強化していった。

 土塁の高さは増し、壕は益々深くなり、逆茂木が何本も埋め込まれる。
 その結果、亜人の村は、周辺をぐるりと堡塁に囲まれた、要塞のようになっていった。

 概ね、牙蟲と黒旺がいる村の状況はこのようなものであり、亜人にとって信じがたいことに、日々は平穏に過ぎていたのである。
 その様な村の中央で、一人の男が数体のリザードマンに囲まれていた。
 
 通りの真ん中である。
 大通りと呼べるほど立派な代物ではないが、村で一番広い路であった。

 頭上から、遠慮のない太陽の日差しが投げ掛けられているという、そういう時刻である。
 この地域なら、後一ヶ月ほどは猛暑が続くだろう。

 男もリザードマンも、道の上にべたりと座っていた。
 屈強なリザードマンの輪の中にいながら、その男には緊迫した様子はない。
 余裕のある表情を浮かべてさえいた。

 硬質の、黒々とした髪を好き勝手に伸ばしている。
 右眼は閉じていた。
 閉じられた瞼には傷痕も何もないのだが、代わりに、その下で何かが動く。
 眼球とは異なった固い何かが、右の眼窩に収まっているらしい。

 開いている左眼の瞳は、灰色である。
 眼光が、業物の刃に似て鋭い。

 眉目は決して悪くなかった。
 しかし、口元に浮かんだ笑みは、余人の評価を分けるところであろう。
 見透かされているようにも、嘲弄されているようにも見て取れるのである。
 満腹なところにやって来た獲物と、どうやって遊ぼうか思案している獣のような表情であった。

 この男が、牙蟲である。
 身に纏っているのは、司祭が着るコープに似たものであった。
 全身を覆うマントの一種だが、そのコープの輪郭が奇妙である。

 右肩から肘にかけてが、不気味に盛り上がっているのだ。
 怪異な蛇か竜の類でも潜んでいそうである。
 しかし、それを気にしている輩は、周囲にはいなかった。

 一方の左手は、常人のそれと変わりはない。
 長い一本の枝を握っている。

「なあ、牙蟲よう、結局、聖殿国からはもう騎士団は来ねえのか?」

 一体のリザードマンが、牙蟲に尋ねる。
 人間や亜人と比べて発達した体躯を持つリザードマンだが、質問を口にしたのは、同族の中でも抜きん出た巨体の持ち主であった。

 全身の鱗が、霜の降りた永久凍土を思わせて、青白い。
 頭頂から背中に掛けて三列の角が並んでいるのだが、それが、氷柱のように見えた。
 上半身には何も身に付けておらず、腰から下も、麻の脚衣を穿いているだけである。

「さっきも言ったが、ないな。そんな余裕は中央にはねえよ」
「なんで?」
「今の王が阿呆だからさ」

 明確な口調で、牙蟲が断言する。
 青白い鱗のリザードマンが、厳つい指を顎の先端に当てて首を傾げた。

「そこんとこが良く分からねえんだよな。聖殿国は大陸を支配してるんだろ? 弱るのが速過ぎやしねえか」

 その言葉に、周囲のリザードマンも一様に頷く。
 どうやら、牙蟲を中心にして、現在の大陸情勢を確認していたらしかった。
 牙蟲が、一つ、溜息を吐く。

「前に説明しただろうが、氷甲」
「も一回頼むぜ、なんかしっくりこねえ」

 氷甲と呼ばれた巨漢のリザードマンが、教えを請う。
 しようがねえな、と呟きながら、牙蟲が地面に枝で図を描き始めた。

 地図のようである。
 大きな海亀に似た形をしているのだが、頭と胴が寸詰まりで、後ろ肢がない。
 また、頭に当たる部分と身体の左側は、線が随分と適当であった。

「これが、大陸だ」

 牙蟲が言うと、複数のリザードマンが、しゅうと呼気を吐く。
 感心しているらしい。

「こんな形をしてるのか」
「そうだ」
「どうやって調べたんだ」
「実地で歩いたんだよ」
「お前が?」
「いや、昔、そう言う一族がいたのさ。地図があれば戦や交易に役立つからな」
「なるほどな」

 納得して頷くが、すぐに地図の不完全な場所に気付いた。

「この、あやふやになってるのは何だ?」
「今から説明するよ」

 牙蟲は言うと、地図の中央に『聖殿国』と記した。
 固い地面の上に書いているものの、中々の達筆振りである。

「聖殿国は、確かに大陸最大の領地を持っている……というか、持ってたんだが、その支配は盤石じゃあない。四方を厄介な外敵に囲まれているからな」

 言って、枝の先で地図の北の部分を指した。
 
「先ずは北部辺境の北壇だ。ここは巨人族やら食人鬼がうろうろしている地域だ」
「おう、知ってるぞ。十年ぐらい前に、そこに送られたよ」

 地図を覗き込むリザードマンの一体が、ちょっとした旅行の思い出のように言った。
 歴戦の古兵らしく、頭頂から伸びる角の数本が、半ばで折れている。
 他のリザードマンも何体かが頷いていた。

「よく生きて還って来られたな。サイクロプスとか、ヘカトンケイルまでいるだろ、あそこ」
「そう言うのとは直接やり合わなかったなあ。食人鬼とは戦ったが」

 角の折れたリザードマンが言うと、氷甲が口を挟む。

「俺はサイクロプスと殴り合ったぞ」
「あれは、お前が勝手に突っ込んだんだろうが」

 氷甲の発言に、周囲のリザードマンが呆れた口調で返した。
 どうやら、後先を考えない猛進が、氷甲の標準的な行動指針らしい。

「まあ、氷甲の馬鹿さ加減は置くとしてだな、北壇は巨人が不定期に侵攻を繰り返しているんで、安定した勢力が無い。お陰で正確な地図もない訳だ」
「ふうむ、西が曖昧なのも同じ理由か?」
「少し違う」

 何か抗議したそうな氷甲を無視して、牙蟲が地図の西側に大きく『ヴェーラ公国』と書き込んだ。

「ヴェーラ? 聞かねえ名だ」
「だろうな。ここは他国との交流が殆ど無いからな」
「どんな国なんだ?」
「西の地に棲む不死者どもの殲滅を、唯一の目的にしている国だ」

 牙蟲によれば、大陸西部の僻陬域は西陵と呼ばれ、神代の時代から死霊や不死者の支配域であったという。
 彼らが東進するのを防いできたのが、ヴェーラというわけである。

「聖三位教会の、とある騎士団が拠った砦が始まりと言われていてな、ずば抜けた戦闘能力を持ち、国民は排他的で誇り高い。本気で大陸の救世主は自分たちだと思ってるぞ」
「ほう」
「ヴェーラ公国のやり方は徹底していて、西陵のことは全く余所に漏れてこない。伝わるのは、ヴェーラの騎士団が死霊や吸血鬼を何体滅ぼしたとか、そう言う宣伝だけだ」
「それで、地図もはっきりしてない訳か」
「まあ、そういうことだ」

 続けて、牙蟲は地図の下方、南部地域を枝で示した。

「ここは南郡だな。森が多く、小国が乱立していて、傭兵が大活躍の地域だ。大抵のリザードマンや獣人はここ出身だ」
「俺らは違うなあ。北方系だし」
「そう言やそうだったな」

 氷甲の言葉に牙蟲が頷いた。
 先を続ける。

「さっきも言ったが、ここはリザードマンや獣人が多い。大多数が傭兵をやっているんだが、こいつらがまた商売上手でな。お互いに勝ちすぎず負けすぎずを心掛けている。だから、延々小競り合いが続いているわけだ」
「それで雇い主には文句はないのか?」
「傭兵がいないと戦が出来ねえのさ。下手に傭兵連中の機嫌を損ねて、全員が敵に回ったらあっという間に滅ぶ」
「難儀だねえ」
「戦争は自前でやれという教訓だな」

 短い言葉で、牙蟲が纏める。
 そして、東部地域を枝で指した。

「で、ここが東夷だ。俺たちがいるところだな」
「ここいらには、北や西みてえな強烈な連中はいねえぜ?」
「中央に属さない山岳民がいるだろ。蛮族呼ばわりされている連中だよ」
「ああ、あいつらか。だが、只の人間だぞ?」
「見た目も話す言葉も違うからな。人間はそう言うところを気にするのさ」
「ふうん」

 今一つ納得のいっていない返事を、氷甲はした。
 リザードマンにしてみれば、人間の民族の区別など、さっぱり付かないのだろう。

「東夷は山が多い。東征は何度も企てられたが、山奥に逃げ込まれればそれで終わりだ」
「ふむ」
「今じゃあ、東夷の平定なんぞ、中央の誰も期待してねえ。ここに飛ばされたおまえらは、正に厄介払いというわけだな」
「成程なあ」

 厄介払いと言われながら、素直に氷甲は納得していた。
 リザードマンの種族的な特性なのか、それとも氷甲の個性なのかは不明だが、国家的な権威というものに余り重きを置いていないらしい。

「で、ここからがさっきの質問の答えなんだが、いいか」
「おう」

 一拍置いて、牙蟲が語る。

「聖殿国は四方を敵に囲まれてる。北は巨人、西は不死者、南は人外の傭兵、東は異民族だ」
「うむ」
「西方はまあ、良い。ヴェーラの連中が勝手に外敵を撃退するからな。だが、それ以外はきっちり対処しないといかん。ここまでは良いか?」
「ああ、大丈夫だ」

 氷甲と、それ以外のリザードマンが頷いた。
 余人には分かりにくいその表情を確認して、牙蟲が続ける。

「とは言え、中央からひっきりなしに軍を派遣するのも巧くない。金と血を浪費することになる。それで、聖殿国が採ったのは現地に任せる遣り方だ」
「人任せか」
「まあな。勿論、只では誰も動かんから、報酬を用意する。血縁だ」
「血縁?」

 訊き返した氷甲に、牙蟲は説明を加える。

「王族の血を引く娘を、その地の有力貴族や領域君主にくれてやったのさ。貰う側からすれば、中央との繋がりが持てるからな」
「意味があるのか?」
「ある。自分たちの戦争は私利私欲ではなく、王家から託された平和と秩序のためという大義名分が立つからな」
「ふうむ……?」

 承伏しかねる様子で、氷甲が唸る。
 周囲のリザードマンの様子も似たようなものであった。
 どうも、戦いに正義や理念が必要というのが、実感しにくいらしい。

「錦の御旗が有るのと無いのとでは士気も変わってくるんだよ、人間は。まあ、最近は降嫁した姫さんの数が多すぎて有り難みも薄れていたようだが、それでも中央が強固なら問題はない。辺境諸勢力の思惑を利用するぐらいの手腕も、前の聖殿国にはあったからな」
「今はないのか」
「ああ。そこはおまえらの方が詳しいんじゃねえか。出来る奴、切れる奴、使える奴は、悉く宮廷から居なくなったんだろ? お陰で辺境の争いは統制が効かなくなった」

 言って、牙蟲が口の端を吊り上げた。

「今まで聖殿国におもねっていた連中が、好き勝手にやり出したのさ。そこに付け込む奴らも出て、争乱は大陸中に広がってる。聖殿国は今や、王都と周辺の確保で手一杯だ」
「ふむ」
「そう言うわけで、聖殿国に軍を送る余力はない、分かったか」

 牙蟲が確認する。
 む、と氷甲が息を詰まらせた。
 他のリザードマンを見ると、視線を逸らす者もいる。

「分かったような、分からんような……」
「何が分からないんだよ」
「いや、聖殿国に余力がないのは理解できた。それは良い」
「おう」
「だが、辺境の連中が今の時期に蜂起した所以がしっくりこねえ。何で今なんだ? 力があったんなら、何時でも良いだろ?」

 氷甲の疑問はリザードマンの共通の心情であったらしく、頷いているものがちらほらいた。

「中央に逆らう、ってのは簡単にできる事じゃないからな。形式だの慣習だの、乗り越えなきゃならん要素は無数にある。実力があっても、身動きが取れないことはあるさ」
「むう」

 氷甲が更に首を傾げる。
 矢張り、納得がいかないらしい。

「余り蠱術師殿を困らせるな」

 一様に得心のいかないリザードマンの集団に、声を掛けてきた者がいた。

「大将!」

 氷甲がその様な言葉を口にする。
 そこにいたのは、漆黒の鱗に覆われたリザードマンであった。
 天を覆う闇が、滴り落ちて固まったかのような、黒々とした鱗である。

 鋼で出来た蛇を思わせる筋肉が、鱗の下で盛り上がっていた。
 頭の位置は氷甲よりも低いところにあるものの、充分に巨躯と言える肉体の持ち主である。

 だが、体躯の大小とは関係なく、そのリザードマンには他を圧するような存在感があった。
 例えるなら、名工が鍛え上げた大剣である。
 それも真新しいものではなく、数多の戦場を潜り抜け、無数の戦士や剣士を屠ってきたような剣だ。

 刃を見せるだけで、対峙した者の心胆を寒からしめる――
 名剣と称され、妖剣と畏怖される大剣の如き風格が、このリザードマンにはあった。

「黒旺か」

 牙蟲が、そのリザードマンの名を呼ぶ。

「おう」

 黒旺が答えた。
 大陸でも卓越した戦闘集団であるリザードマンの長が、この黒旺である。
 他のリザードマンと同じく、上半身は裸で脚衣を穿いただけの格好をしていた。

「お前たちが頼んだエールが届いていたぞ。取りに行ってこい」
「おお! 待ってました!」

 嬉しそうに言うと、氷甲が村の入り口に向けて走り出した。
 その場にいたリザードマンも我先にと続く。
 巨体でありながら、冗談のように動きは俊敏であった。

「ほんと、酒に目がないな、あいつらは」

 牙蟲が呟く。
 種族の特性なのかと思うぐらい、リザードマンの殆どが酒を好む。
 ただ、どういう訳かリザードマンは酒を醸すことができず、自分たちが呑むものは他から購入するしかない。
 村でも酒を造っているものの、リザードマンの鯨飲ぶりにはとても追い付かないため、定期的にやってくる隊商から酒を大量に仕入れている訳であった。

「お前も、酒は嫌いではあるまい」

 腰から下げた素焼きの甕を、黒旺が掲げてみせる。
 たっぷりと中身の入った音がした。

「旨ければな」
「それを確かめるには、呑むしかないだろう?」

 にやりと笑った黒旺に、牙蟲が降参の合図に肩を竦めた。

「仰るとおりだ」

 言って、牙蟲は立ち上がった。
 氷甲や黒旺には及ばないものの、牙蟲も中々の長身である。

「俺の家で呑もうぜ。流石に暑い」
「構わんのか。お前の女がいるだろう」
「ひっきりなしに亜人のガキが遊びに来るからな。リザードマンが加わっても今更だ」
「ふん」

 リザードマンと亜人の子供を一緒くたに考える牙蟲に、黒旺が何とも言えない表情をする。
 こういう扱われ方は、黒旺に限らず、リザードマンには新鮮であった。
 何かと、牙蟲が亜人やリザードマンの中心に居ることが多いのも、この様な気質に因っているのかもしれない。

 こうして、魁偉なリザードマンと怪しげな風貌の蠱術師は、粗末な家で酒を呑むこととなったのであった。
 村にある家々は、典型的な農村のそれであり、構造は極めて単純である。

 木枠に榛の枝を組んだ垣を組み合わせ、そこに泥を塗ったものが壁である。 
 屋根は湾曲した木材が支えており、天井は高い。
 大きな部屋が、壁や柱で幾つかの区画に分けられていて、窓は鎧戸になっている。

 そのような家の一室で、牙蟲と黒旺は差し向かいで酒を遣り取りしていた。
 既に結構な時が過ぎており、日は沈みかけている。
 黒旺が持ってきた酒だけでは足りず、牙蟲の家に置いてあったエールを今は呑んでいた。

 簡素と言うよりは貧相といった方が良いような、物の少ない部屋である。
 水の入った甕に、寝台代わりの架台、古ぼけた小さな卓が見えた。
 置いてあるのは、それだけである。

 藁の敷かれた床に、牙蟲と黒旺は直接座っていた。
 亜人は有尾の種族のため、人間の使う椅子は却って不便なのである。
 リザードマンも同様であり、この村の家に椅子は無用なのであった。

「あの、失礼します」

 丁度、甕の中の酒が無くなった頃合いに、亜人の少女が一人、部屋に入ってきた。
 小柄な少女である。
 歳の頃は、十代の半ばぐらいだろう。

 やや癖のある、菫色の髪を少し伸ばしていた。
 瞳の色が、良く晴れた空を思わせる。
 耳が、人懐こいある種の犬のように、柔らかそうな毛に覆われ、垂れていた。
 身に纏っているのは、ダルマティカと呼ばれる筒型衣である。
 人見知りだが、忠誠心は厚い仔犬のような印象を他人に与える少女であった。

「セタか」

 牙蟲が少女の名を呼んだ。
 セタは、牙蟲と共にこの村にやって来た亜人である。
 牙蟲の弟子であり、愛人であろうと周囲は見ていたが、当人たちがそれについてあれこれ言うことはなかった。
 ただ、牙蟲の隣にはセタが居ることが多いのは事実である。

「はい。あの、お酒をお持ちしました」
「おお、済まんな。新しいのが欲しかったところだ」

 黒旺が言い、セタからエールで満ちた甕を受け取る。
 自分と牙蟲の杯に、その中身を注いだ。

「ガキどもは帰ったのか」
「はい。そろそろ夕餉の時間ですので」
「そうか。しかし、あいつらほんと元気だよなあ」

 疲れたように、牙蟲が言った。
 実際、牙蟲と黒旺が家に戻ったとき、家には亜人の子供達が走り回っていたのである。

 苦笑して、セタは退室した。
 また、部屋には牙蟲と黒旺だけになる。

「亜人の子供が迷惑なような言い方だな、牙蟲よ」
「迷惑しているよ」
「ふふん」

 黒旺が、口の端を歪ませる。
 リザードマンとしては珍しく、はっきりと表情が見て取れた。
 笑ったのである。

「あやつらに玩具を与えたり、蜂蜜を分けてやったり、馬に乗せてやったりしたのはお前だろう」
「む」
「それで文句を言うのは、お門違いというものだろうよ」

 言って、黒旺はしゅうと息を漏らした。
 牙蟲が何か言いたそうな表情を見せるが、結局言葉を発することはなかった。
 黙って、自分の杯の酒を干す。
 詰まるところ、黒旺の指摘は事実なのであった。

「お前には感謝している」

 黒いリザードマンが、呟く。

「何がだ」

 手酌でエールを注ぎながら、牙蟲が問う。

「色々あるが、例えば、我らと亜人との訓練だ」
「あれか」

 牙蟲が、黒旺の言っていることに思い当たり、頷いた。
 この村の住人とリザードマンは、同盟関係にある。
 亜人にはリザードマンのずば抜けた戦闘力が重要であり、リザードマンにすれば、亜人の村は拠点として確保しておきたい場所であった。

 しかし、牙蟲は亜人とリザードマンの関係を一面的なものにするつもりはなかったらしく、両者が戦う共同訓練を行ったのである。
 当初、リザードマンはこの教練に否定的であった。
 理由は単純で、亜人との教練が役に立つとは思えない、というものである。

 その意見を無視して牙蟲は段取りを整え、訓練の実施日を一方的にリザードマンへ告知したのであった。
 訓練の当日もリザードマンの動きに関係なく、亜人を展開させたのである。

 亜人が陣を構えたのは、村の西に広がる荒れ地であった。
 北に山が聳え、すぐ側を太い河が流れている。
 大小の石がそこかしこに転がっており、今後、開墾して畑にする予定の土地であった。

 事ここに至って、リザードマンも、武装した亜人を放置するわけにはいかなくなった。
 彼らは戦闘集団であり、挑まれて逃げるなどと言う選択肢は存在しないのだ。

 それで、亜人とリザードマンは戦うことになったのだが、牙蟲はルールを二つ提案した。
 一つ、武器は使用しない。
 二つ、互いにリボンを身体の一部に巻き付け、それを取られたら戦線離脱する。
 無用な怪我人や、死人を出さないための規定であった。

 リザードマン側にもそれを拒否する謂われはなく、牙蟲の提案はあっさりと受け入れられた。
 だが、ここで牙蟲はちょっとした細工をリボンに施しておいたのである。
 とは言え、リボンを長短二種用意したというだけのものであった。

 まず、亜人に短いリボンを、リザードマンには長いリボンを渡す。
 亜人たちは短いリボンを腕や足首に巻き付け、余りが殆ど無い状態にした。
 リザードマンが手にしたリボンは、その長さのため、何処に巻き付けても残った部分が尾のようになびいてしまっていた。
 結ぶ箇所もばらばらで、自分の角や棘の先に結ぶ者までいたのである。

 その様な状態で、模擬戦は始まった。
 リザードマンが驚いたことに、亜人たちの行動は積極的であった。
 攻めることを躊躇わず、反撃を恐れない。

 自分たちの村を自ら守りきったことが、彼らに兵士としての精神を与えたらしい。
 ひらひらと舞うリボンの端を目指し、果敢に攻めていく。
 無論、リザードマンとて、百戦錬磨の強兵である。亜人の攻勢を漫然と受けるだけでは終わらない。

 迫る亜人から、逆にリボンを奪おうとリザードマンも殺到した。
 ここで、リボンの長短が勝負の行方に絡むこととなる。

 端が長く伸びたリザードマンのリボンは掴みやすく、短い亜人のリボンは掴む箇所が無い。
 腕や脚に巻かれた亜人のリボンを解こうとリザードマンが悪戦苦闘しているうちに、長いリボンの端に複数の亜人が群がっていた。
 それを引っ張る。

 ぶつん、と音がしてリボンが千切れた。
 そこかしこで、一体のリザードマンに亜人が何人も挑み、リボンを奪おうとする光景が繰り広げられた。
 膂力や敏捷性、リーチで遙かに勝るリザードマンが、自分に張り付いている亜人を剥がそうとする。

 それでも亜人はリボンから手を放さない。
 寧ろ、リザードマンが自分を振り払う勢いを利用して、リボンを引き千切っていった。

 身体特性はリザードマンが圧倒的に優位であったが、リボンの争奪という教練のルールが、戦いの様相を変えていたのである。
 結果、リザードマンと亜人の模擬戦は、亜人の辛勝で終わった。

 納まらないのがリザードマンである。
 続けて二戦目となった。

 今度は、長いリボンを亜人が、短いリボンをリザードマンが身に付けた。
 だが、ここでもリザードマンは裏を掛かれることになる。
 牙蟲は亜人に命じて、リボンの端に切れ目を入れさせたのであった。

 リザードマンが強い力でリボンを引くと、手には僅かな切れ端しか残らない。
 勢い余って、転倒するリザードマンが続出した。
 そこへ、亜人たちが覆い被さって、リザードマンのリボンを奪いに掛かる。

 暫くは、亜人の攻勢が続いた。
 だが、今回はリザードマンの立ち直りの方が早い。

 切れっ端しか手に入らないのなら、丸ごと奪い取るまでだ。

 決意を込めて、亜人の下になっていたリザードマンが立ち上がる。
 亜人の一人一人を、軽い荷物のように抱え上げ、そこからリボンを奪っていく。

 こうなると、亜人側が著しく不利である。
 結局、二戦目はリザードマンの勝利となった。
 亜人も健闘したが、地力の差が出たのである。

 その日の教練はそれで終了となった。
 訓練が終わり、村に戻った亜人とリザードマンを待っていたのは、充分な量を確保した酒と食事である。

 肉もあれば魚もあり、高級品とはいかないものの、パンや水菓子も用意されていた。
 模擬戦の疲労と空腹のため、リザードマンと亜人はそれを大いに喰った。

 その宴の中で、リザードマンと亜人は互いの戦い振りを認め、評価し、論じたのである。
 亜人の中にあったリザードマンへの恐怖心や隔意、リザードマンが抱えていた亜人への侮りや軽視は、この日以来、確実に解消されていった。

 この後、亜人とリザードマンの教練は、幾度も行われていく。
 二手に分かれての戦闘だけでなく、亜人とリザードマンの混成部隊で戦うこともあった。

 一体のリザードマンを隊長とし、配下に三〜四人の亜人を置く。
 逆に、亜人がリーダーとしてリザードマンを率いることもあった。

 牙蟲が驚いたことに、彼らは指示されるまでもなく、独自の戦術を考案していった。
 リザードマンを前面に押し出して相手の注意を惹き付け、亜人が奇襲を掛ける。
 亜人が前線を構築し崩れたと見せ掛けて、控えていたリザードマンの別働隊が強襲する。
 リザードマンの打撃力を活かした殲滅戦。
 亜人の粘り強さを活かした持久戦。

 訓練を重ねれば重ねるほど、彼らの連係は緻密に、大胆になっていたのである。
 そして、教練の後は必ず宴会を設けた。

「あれで、奴らも亜人と打ち解けた」
「国を造るんなら、亜人や人間との付き合いも覚える必要があるだろうからな」

 黒旺の言葉に、牙蟲が答える。
 この時期の大陸の誰も予測していないことだが、黒旺は自分の国を建てるつもりであった。

 リザードマンだけの国ではない。
 人間も亜人も獣人も、全てが一緒になっている国だ。
 法の下、器量と才で何をしても許される国である。

 壮大で、荒唐無稽な夢であった。
 その様な国は嘗て無く、想像した者もいない。
 だが、黒旺は自信たっぷりに牙蟲にそれを語った。

 そんな野望を抱いた理由を牙蟲に問われ、面白そうではないか、と黒旺は答えたのである。
 この返答に牙蟲は共感を覚え、黒旺と協力関係に至ったわけであった。

「蠱術師牙蟲の力は、奴らも認めている。お前の話は面白いとも言っているしな」
「ふん」

 牙蟲が鼻を鳴らす。
 実際、リザードマンに大陸の情勢や、各国の動向を指南するのは、牙蟲の役目であった。

「あいつらは呑み込みが悪すぎる」

 毒づく。

「仕方あるまい。奴らは戦士だ。戦場での振る舞い以外は知らん」
「分かってるさ」

 黒旺の言う通り、リザードマンは生粋の戦士である。
 中央の指令に従って現地に赴き、そこで対峙した敵戦力を粉砕する――。
 それが彼らの日常であり、生の全てであった。

 自分たちの行う戦闘が、国家の戦略とどう関わっているのかを考えることはない。
 必要のないことであったし、下手に考えすぎれば害でもあったからだ。

 重要なのは眼前の砦を落とすことや、迫る騎馬隊を殲滅することであり、その勝利が戦局に与える影響までは、彼らの関知する所ではないのである。
 少なくとも、これまではそうであった。

 だが、今後は話が違ってくる。
 黒旺の胸中に国家建設という野心がある以上、戦闘技術や兵法の知識だけでなく、国同士の動きや思惑を考慮できる者を揃えなければならないのだ。

 その様な時期に、黒旺が牙蟲という材を得たのは正に僥倖であった。
 当初、黒旺が牙蟲に期待していたのは、素人同然の亜人を率いて騎士団を撃退した、戦術指揮官としての技量である。
 だが、蓋を開けてみれば、牙蟲の才覚は戦場の指揮官に止まらず、大陸全土を見渡すほどであったのだ。

 その牙蟲が、配下のリザードマンに軍略の初歩を教授しているのは、黒旺にとって有り難いことであった。
 成果が出ているとはお世辞にも言えなかったが、性急になっても仕方がない。
 少しでも天下国家を見る素養が身に付けばよいと、黒旺は考えていたのだった。

「お食事をお持ちしました」

 言って、二人の亜人が部屋に入ってきた。
 一人はセタである。

 もう一人は、セタよりも大人びた亜人の女であった。
 二十代半ばの歳であろう。

 日に焼けたような茶色い髪が、肩を越えて伸びていた。
 セタの犬に似た耳とは違う、ぴんと尖った耳が目を引く。

 体型そのものはすらりとしているのだが、女らしさを強調するかのように、胸元は豊かであった。
 琥珀色をした瞳が涼しげで、鼻梁は繊細である。

 一言で評すれば、美人だ。
 身に付けているのは辺境で一般的なカートルで、地味な代物であったが、それが却って容貌を際立たせている。
 何かの手違いで雑踏に迷い込んだ美姫のようであった。

 ノヤ、と言うのがこの亜人の名である。
 牙蟲に命を助けられたことがあり、以来、蠱術師の家に出入りをしているのであった。
 上品とは無縁のリザードマンは、遠慮無くセタを本妻と呼び、ノヤを側室と呼んでいるが、当人たちにはそれらしい確執は見受けられない。

 寧ろ、二人の関係は良好であり、仲の良い姉妹に見えた。
 そのセタとノヤが運んできたのは、雑穀のパンと鶏肉や野菜をふんだんに入れたシチュー、豚肉の燻製、チーズなどである。
 勿論、酒もあった。
 二人が協力して料理したものであり、辺境の寒村としては豪勢な食事である。

「旨そうだ」

 黒旺が、率直に称賛した。

「ごゆっくりどうぞ」

 ノヤが、穏やかに言った。
 微かに浮かべた笑みが実に艶やかである。

 セタが酒の満ちた甕を並べていった。
 二人が牙蟲や黒旺の会話に口を差し挟むことはない。
 この日も、腹と舌を充分満足させるだけの料理を運び終わると、すぐに退室した。

「信頼されているな」
「俺には過ぎた女たちだ」

 珍しく、牙蟲が黒旺の言葉を素直に受け入れる。
 リザードマンが蠱術師の顔をまじまじと見た。

「どうかしたか」
「それはオレの台詞だ。嫌に素直ではないか」
「俺の性根は曲がっているが、目はまともだ。玉と石を見誤ったりはせんさ」

 冗談のような、本気のような口調で牙蟲は言った。
 く、と黒旺が短い息を吐く。

「他人事のようだが、おまえだって城に女を残しているだろうが」

 牙蟲が、パンを千切りながら言った。
 シチューに浸して、口に放り込む。 

 城、というのは黒旺がこの東夷に派遣されたときに得た山城である。
 亜人の村から、山間の狭い道と点在する村を幾つも越えて東に進んだところにある、小さな城であった。
 そこに黒旺に降嫁した王家の姫を、住まわせているのである。

 姫とは言え、先王の庶子であった。
 現王の、嫌がらせ染みた策謀でリザードマンの元に遣られたのだが、話に聞く限りでは、幼い姫君と魁偉なリザードマンは睦まじい仲らしい。

「戻ってやらんで良いのか」

 存外に真剣な表情で、牙蟲が問うた。

「そうしたいのは山々だが、ここには物も金も集まってくる。練兵の都合も考えると、軽々に離れるわけにはいかん」
「情勢の見極めもあるか」
「そう言うことだ」

 牙蟲が言うと、黒旺が頷く。
 更に問いを重ねた。

「注視すべきは、何処と見る」
「東の三つだろう」
「タブロタ、神聖ヴェーラ、スニエークか」



 蠱術師が口にしたのは、東夷にある三つの国である。
 昼間、リザードマンに牙蟲が説明していたとおり、東夷は海亀の鰭に似た形をした土地だ。

 亜人の村は、その鰭の付け根の辺りに位置している。
 そこから東に向かうとタブロタに出、更に東進すると神聖ヴェーラ、そこを抜けるとスニエークに至るのだ。

 村に一番近い国が、タブロタであった。
 しかし、タブロタと村の間には、首落としの野という物騒な名称を持つ荒原が挟まっていて、かなりの距離がある。
 旅慣れた馬を使って、一週間は必要だろうか。

 タブロタ自体は、山が多く、放牧が盛んな国である。
 地勢上、街道などは発達しておらず、領域君主の権限が強い国でもあった。

 そこから東に進むと、神聖ヴェーラである。
 大陸西部に位置するヴェーラ公国と同じ名を冠しているが、どちらも聖三位教の大司教が王位にある。
 だが、神聖ヴェーラは自分たちこそが正統な聖三位教だと主張していた。
 それは公国も同じで、互いに相手を、不完全な教えを拝する愚か者と見下していたのである。

 とは言え、神聖ヴェーラとヴェーラ公国の教えが、大きく異なっているわけではない。
 聖三位教は大陸全土で信仰されており、宗派や土地によって内容に細かな違いがあるものの、根幹となるのは以下の三つである。

 一つ、正しい神。
 一つ、正しい信仰。
 一つ、正しい世界。  

 正しい神に対して、正しい信仰を捧げれば、正しい世界が訪れる、と言うものだ。
 聖三位教の教えではこの世界は創造の途上にあり、神に協力し、あるべき世界を創ることが人々の持って生まれた使命であった。

 しかし、この教えは、解釈次第で様々な問題を生じさせる。
 一言で言えば、何を以て正しいとするか、という問題だ。

 殊に正しい世界の解釈は、重要である。
 現在の世界が創造途上であるなら、正しい要素と、正しくない要素が混在していることになる。
 つまり、正しい要素を守り育むことも重要だが、正しくない要素の排除も、神の与えた使命と言うことになるのだ。

 そして、聖三位教会の多くの宗派が不要な要素としているのが、亜人や獣人と言った、人間以外の存在である。
 積極的に人外の排除を謳っている一門は少ないが、排除という行為を禁じたり、問題視したりしているものは稀であった。
 傍流の、ごく小さな一派が、人外と人間の共存を可能であるとしているぐらいである。

 亜人の村を襲撃した星章騎士団が、さして非難されなかったのもこの為である。
 教会の立場からすれば、彼らの行為は過激ではあったが、無法ではないのであった。
 黒旺や牙蟲にとって最も動向を注視すべきが、この国と言えるかも知れない。

 神聖ヴェーラを越えて東に向かうと、スニエークである。
 ここは東夷にしては珍しく、広大な平野を有する国で、穀倉地帯として知られていた。
 上流階級に向けては小麦が、下層にはオート麦が中心に輸出されており、ここが不作に見舞われると他国も飢える羽目になるのである。

 そして、スニエークの北方に連なる峻嶺な山並みを越え、古びた砦を通過して数日進むと、黒旺の山城に出るのであった。
 突き立てた剣を思わせる絶壁に、嵌め込むようにして建てられた城である。
 これが、東夷の北部地域の国々である。

「三国以外は良いのか」

 牙蟲が、黒旺に訊いた。
 東夷には、他に四つの国が南部に存在するのである。

「南部は南部で食い合っている最中だ。手を出す必要はあるまい」
「下手に手を突っ込んで喰い千切られたら事だしな」
「そう言うことだ」

 牙蟲の言い様は、明らかに黒旺の答えを予想していたものである。
 恐らく、確認をしておきたかったのだろう。

 東夷に限らず、どんな国にも思惑や譲れない権益があり、巧拙は抜きにして、様々な駆け引きと小競り合いを経て、彼らは勢力を保ってきている。
 そして、この地において特に有効であったのは、中央との血縁関係を前面に押し出しての外交であった。
 今までは。

 現在、情勢は急速に変化していた。
 聖殿国が混乱し、中央の権威が低下した結果、不安定な世情に誘発されるかのように、各地で暴動が起こり、略奪が行われていく。

 その煽りを食って流民となり、村に逃げ込む亜人も多かった。
 情勢の変化はそれだけではない。
 黒旺率いるリザードマンもまた、情勢を大きく変えていく要因の一つであった。

 実はこの時点で、黒旺はスニエークと傭兵としての契約を結んでおり、スニエーク北方の砦にはリザードマンの一団が常駐していたのである。
 この辺りに、スニエークが抱いている野心を垣間見ることもできる。

「状況を作らねばならん。今の内にな」

 黒旺が言った。
 気負うわけでもなく、落胆するわけでもなく、言葉を続ける。

「国からすれば、オレたちは只の傭兵だ。この村のことなど、眼中にないだろう。だからこそ、仕掛ける隙があり、意味もある」 
「ご賢察だが、何を仕掛ける」

 牙蟲が尋ねた。
 面白がっているような表情が、そこには浮かんでいる。

「タブロタとスニエークの間に、神聖ヴェーラは位置している。東夷で行われる交易の半分は、必ず神聖ヴェーラを介してきた。これが神聖ヴェーラの国庫を潤す源だ」
「その通りだ」

 問いに対する直接的な答えではなかったが、牙蟲は同意した。
 正しく、現状はそうであったからだ。

「だが、神聖ヴェーラを迂回してはならんという法はない。違うか」

 黒旺の言葉に、牙蟲の口の端が上がる。
 この蠱術師もまた、同じ事を考えていたらしい。

「神聖ヴェーラを通る間に、幾重にも税が掛かる。これを回避したい連中は多いだろうな」

 リザードマンの言葉を先取りして、牙蟲が言う。
 交易路に設けられた関所からの税収は、この時代の君主にとって重要な収入源であったが、神聖ヴェーラはそれを徹底していた。
 入り組んだ国境を越える際には何重にも関料が課され、幾つもの峠や橋、河川を通ればその度に保全料を支払わねばならず、村や街に留まるだけで地代を要求されるのであった。

「神聖ヴェーラを介さない交易路を造る気か」
「そうだ」
「何処へ」
「北方山岳域」

 当然のように黒旺が答える。
 そこは黒旺の山城が存在し、実質、リザードマンの支配領域となっている地域である。
 狭隘な山岳地帯のため、どの国も敢えて侵攻していなかったが、交易路とするには問題があった。

「整備された道と、隊商を泊めるだけの宿場が必要だぞ。当てはあるか」
「この村に来る自由商人を使う」

 淀みない返答である。
 牙蟲は我ながら、心が動くのを感じていた。
 黒旺の発想は、単なる傭兵集団の頭領に止まるものではない。

「一度でも手を出せば、事が成るまで金を出し続けることになる。上手く行くかは奴らの商才次第だ」
「手をつけた者と、成就した者が同じである必要はないということか」
「そういうことだ」

 悪辣なことを、互いに口にする蠱術師とリザードマンであった。
 無論、何もかもを自由商人の才覚に任せるわけにはいかない。

「最初の一手をどうやって出させるか、だな。旨味がなければ奴らは動かんぞ」
「撒き餌に針を付ける必要はない。まずは儲けさせれば良かろうよ」
「どんな餌を撒く」

 牙蟲の問いに、黒旺が微かに牙を見せる。
 既に手は用意してあるらしい。

「赫炎を使う」
「赫炎?」
「スニエークの砦に駐留しているオレの配下だ。部下も二十ばかりいる」
「ほう」

 黒旺の言葉に、牙蟲が身を乗り出す。
 日が傾き、夜が更けても、蠱術師とリザードマンの間で会話が途切れることはなかったのであった。

 数日後、午天を少し回った頃――

 牙蟲は、一人の客人を迎えていた。
 人間の客だ。

 四十の手前ぐらいに見える男であった。
 肌が、地なのか日に焼けてのものなのか、なめした皮のように茶色く、乾いている。
 頭髪は一本もない。

 背は低く、ずんぐりとした体型をしていた。
 黒々とした、丸い眼をした男である。

 全体的に曲線ばかりで構成された輪郭の持ち主であった。
 燻製にした卵に黒いおはじきを嵌め込めば、この男の容貌に近いものが出来上がるだろう。

 身に付けているのは、ブリオーに脚衣で、肩にはケープを羽織っていた。
 長年着続けてきたらしく、随分と古びていたが、生地に綻びなどは見られない。
 カローフカと、この男自身は名乗っていた。

「それで、何用でございましょう」

 落ち着いた口調で、丁寧に言った。
 カローフカがいるのは、数日前に牙蟲と黒旺が語らっていた場所と同じである。
 要するに、牙蟲の家であった。

 敷かれた藁の上に座って、向かい合っている。
 傍らには、この村で造ったエールが、杯に満たされて置いてあった。

 しかし、カローフカはそれに口を付けていない。
 話の内容がはっきりするまでは、歓待を受けるつもりはないらしい。

「おまえの生業の話さ」
「ははあ」

 分かったような、分かっていないような返答をする。
 表情が殆ど変化していない。
 無表情、と言うのとは少し違った。

 よくよく見れば、あるかないかの笑みが、口の端に浮かんでいるように思えるからだ。
 しかし、その笑みが動かない。
 石に刻まれた異教の神のような、表情であった。

「人を買え、というお話ですかな」

 さらりと言った。
 カローフカが口にしたとおり、この男は奴隷商である。
 ただ、奴隷商としてはかなり異色な商いを、この男は行っていた。

 通常なら、奴隷商が仕入れた『商品』は現地に着くまでに半減しているものである。
 山村や僻地で購入した人間や亜人を、都市部まで運んで卸すのが一般的な奴隷商の形態だが、十人買い付けても、市場に出す頃には五、六人が残っていればいい方であった。
 過酷な道程、貧相な食事、劣悪な衛生環境、商人自身の酷使などが相俟って、『商品』として並ぶ頃には半数近くが死んでしまうのである。
 それでも、奴隷自体の元値が驚くほど安価なため、充分に儲けが出せるのだ。

 カローフカは、そうではない。
 十人いれば十人、二十人いれば二十人を死なせることなく、市場まで運ぶのである。
 食事をきっちりと取らせ、患っていれば薬師に見せ、健康体にしてから買い主に渡すのだ。

 更には、各人の特徴も細かに把握していた。
 この男は力が強いから野良仕事に向いている、この娘は手先が器用だから家事を手伝わせると良い、この少女は頭が良い、是非、文字と算術を教え込むべきだ、と言った具合である。

 カローフカ曰く、自分が扱う商品の管理、品質の把握は商人として当然とのことであった。
 三十人以上の亜人を引き連れてこの村を訪問して以来、カローフカは村の拡充計画に無くてはならない人材となっていたのである。
 この男の手によって、村に移住を果たした亜人は数百人に上るだろう。

「亜人の人手がいる」
「如何ほどでございましょう」
「数千か、それ以上だな」

 牙蟲があっさりと口にした数字に、カローフカが息を呑む。
 ごくり、と喉仏を動かした。

「……豪気なお話ですな」

 即座に平静を取り戻したのは、流石である。
 常と変わらぬ口調で、尋ねた。

「何をなさる御心算で?」
「街道を造る」
「街道を……?」

 今度こそ、カローフカは真意よりも正気を疑う視線を、牙蟲に向けた。
 く、く、く、と牙蟲が笑い声を漏らす。

「おまえのそんな顔は初めて見るな」
「お戯れなら、わたくし以外の人間にお願い致します。こう見えても忙しい身でして」
「ふざけてはおらんさ。おまえがどう思うかは勝手だが」

 言って、牙蟲が黒旺に語ったのと同じことを、カローフカに告げる。
 丸い目玉を、一層丸くしてカローフカは牙蟲に訊き返した。

「つまり、亜人に人足をさせようということで?」
「そうだ。出稼ぎではなく、その場に住まわせる。隊商向けの宿場も兼ねた集落を作る訳だ」
「それはどうですかな。亜人の移住を快く思わない者は多いでしょう」
「かもしれんが、手はある」
「と、言われますと?」

 牙蟲が説明したのは次のようなことである。
 聖殿国から東征の名目で追放された黒旺とリザードマンの一団が、山城に移り住んでから行ったのは、近隣の村々の治安確保であった。
 正義感や義憤からではなく、必要に駆られてのことである。

 呼称や口実はどうあれ、周辺住民にとって、黒旺たちは突如出現した異形の集団である。
 警戒心や嫌悪感があって当然であり、明確な行動には出ないとしても、その様な悪感情が諍いの火種となる可能性はあった。
 覇道の野心を秘めた黒旺にとって、それは甚だ不都合である。

 そこで、手っ取り早く周辺からの信頼を得るため、山間に潜む無頼の輩を悉く討つことにしたのであった。
 結果、武装したリザードマンが山間の寒村に唐突に現れ、野盗の情報を手際よく集めると即座に去り、二、三日後には件の野盗の首を掲げて凱旋すると言う光景が、何度も繰り返されることとなった。
 しかも、その後には黒旺に降嫁した姫君が、リザードマンが滞在する村を必ず慰問したのである。

 狭隘な谷間にへばり付くようにして点在する村は、領域君主や騎士団の庇護を受けることもないため、王族の血を引く人間を見るなど初めてのことであった。
 村民が驚愕したことに、リザードマンたちは、幼く可憐な姫君を最敬礼でもって迎えたのである。

 黒旺自らが、跪いて村の安全を脅かす凶賊を討伐したことを伝えると、その小さな姫は慈愛に満ちた笑み浮かべて頷き、リザードマンを労った。
 更には村の住民に対して、今まで無法者に晒されてきた苦難を気遣い、それを野放しにしてきた非を詫びたのである。

 そして、今後は村の平穏と秩序を必ず守ると、約束したのであった。
 無論、守るための力はリザードマンである。
 この様な手法で、黒旺は村人に己とリザードマンの存在を受け入れさせたのであった。

 正確に分析するなら、村の住人が認めたのは、リザードマンが忠誠を誓う姫君の威光かも知れなかったが、結果的には同じ事である。
 ここまで説明して、牙蟲は暫し間を置いた。

 自分の言ったことが、奴隷商に浸透するための時間を取ったのである。
 言葉を続けた。

「だから、隊商の護衛にリザードマンを付ける。亜人と村の人間の緩衝材の役目だな」
「上手くいきますかな」
「いかせるのさ。それぐらいの手腕はおまえさんにあるだろう」

 挑発するように牙蟲が言うと、カローフカは丸い目玉を窄めた。
 窘めるように言う。

「お引き受けするとは限りませんぞ」

 言われて、牙蟲が小さく笑う。
 苦笑に近い。

「おまえの顔を見てりゃ分かる。今、頭の中で算木を組み合わせてる最中だろうが」
「む」

 カローフカが唸って、黙り込む。
 図星なのであった。
 渋々ながら牙蟲の言葉を認め、それでも抗弁する。

「商売人ですから、持ち掛けられた商談を検討は致します。ですが、余りに危うい」
「まあ、確かにな。だが、これが出来そうなのはおまえぐらいのもんだ。他の連中に千や二千の亜人を扱えるか?」
「それは、まあ、確かにそうですが……」

 商売人としての自尊心をくすぐられ、カローフカの語勢が弱まる。
 だが、このまま蠱術師に踊らされるのは、癪であった。

「ですが、わたくしとていきなり千人の亜人を集めることは不可能ですぞ。先立つものがありませんと」
「何、心配するな」

 言って、牙蟲が視線をカローフカの背中越しに向ける。
 部屋の出入り口だ。
 疑問に思ったカローフカは振り返り、そして息を呑んだ。

 驚いたことに、何時の間にか、そこにリザードマンが立っていたのである。
 背丈はリザードマンとしては平均的であろう。
 つまり、巨漢と言うことであった。

 全身を覆う鱗は、鉄にそっくりな色合いと質感を持っており、腕と胴には、絡み付く蛇のような橙色の紋様が見える。
 そして、瞳が血に浸したルビーのように赤かった。

 鱗の下に、鍛えられた、しなやかな筋肉がうねっているのが分かる。
 麻布で出来た、ゆったりとした脚衣を穿いていた。
 盛り上がった肩の上に、一抱えはある甕を担いでいる。

「……こちらは?」

 努めて平静を装いながら、カローフカが尋ねた。
 牙蟲が目配せすると、そのリザードマンが重たそうな甕を床に降ろす。

「玄醜と申します。牙蟲殿より、あなたの護衛を命じられました」

 意外にも丁寧な口調であった。
 しかし、カローフカを見る真紅の瞳は、血に飢えた魔獣の如く剣呑で、狂気に似た光を孕んでいる。

 この視線に晒されれば、大の大人でも腰が引けるだろう。
 カローフカの表情に、はっきりとした怯えが見えないのは、それなりに修羅場を潜ってきたからかも知れなかった。

「その甕は何でしょう」

 重ねて尋ねると、返ってきた答えは単純明快であった。

「金です」

 甕に封をしていた板切れを取り外すと、そこには、ぎっしりと銀貨が詰まっていた。
 全てが銀貨ではなく、金色に輝く塊も幾つか見える。
 相当の額になりそうであった。

「言っとくが出所のあやしい金じゃねえからな」
「どの様にして集められたのですかな」
「何、ここに集まる商人がな、どこそこは大麦が安い、あっちは小麦が足りんとか言ってたのを聞いて、現物を買ったり、売ったりしたのさ。上手くいって助かった」

 事も無げに牙蟲は言った。
 驚きを隠せないカローフカの表情を眺めている様が、してやったりと言外に語っている。

「成程……」

 薄い唇をそろりと舐めて、カローフカが呟く。
 目の前に積まれた銀貨や金貨は一財産と言って良かった。
 これに自分が持っている資産を足し、数千単位の亜人を使って、新たな街道を造れと目の前の男は言っているのである。

 夢物語であった。
 神聖ヴェーラを介さぬ交易路を造り上げるなど、一介の奴隷商にとって夢想だにしないことだ。

「お引き受け致しましょう」

 口を突いて出たのは、その様な言葉であった。

「北の山に、街道を一つ、通して見せましょう」

 言ってみると、己の中に嘗て無いほど熱いものが漲ってくる。
 どうやら、自分は未だ枯れてはいなかったらしい。

「任せる」

 口の端を吊り上げて、牙蟲が言った。
 早速、玄醜が甕を持ち上げ、カローフカの側に立つ。

「では、わたくしはこれにて。準備もありますので」
「ああ」

 部屋から出ようと背を向けたカローフカに、牙蟲が再び声を掛けた。

「玄醜だが」
「はい」
「おまえさんの護衛なのは確かだが、他にも役目がある」

 含みを持たせた言い方を、牙蟲がした。
 カローフカは立ち止まったが、振り返らない。

「おまえが裏切ったときに、おまえを始末する役だ」
「ほう」
「情勢次第で本意でない選択を迫られることもあるだろうさ。そのときの備えだな」

 無情な事を告げる牙蟲も、それを聞いているカローフカにも、表情の変化は見られない。
 両者にとって、そのような備えは当然のことであるらしかった。

「それともう一つ、ある」
「と、言われますと」
「人間の裏と表、それを学ばせる」

 牙蟲の言葉に、カローフカが自分の隣に立つリザードマンを見遣る。
 リザードマンの表情を読み取ることは、カローフカには出来ないが、何となく高揚した決意のようなものを感じ取っていた。
 案外、この玄醜というリザードマンは若いのかも知れない。

「蠱術師様は、良い商人でいらっしゃる。一度の取引で、三つも利を得るとは」

 呆れたような、感心したような口調で言い、卵に似た輪郭の奴隷商は立ち去っていった。
 リザードマンの玄醜が、その後を離れずに付いていく。

 この日を境に、多くの亜人が北部山岳域に移住していくことなる。

 同時に、牙蟲は村を訪れる自由商人に、北部山岳域を抜けての交易路を熱心に勧めていった。
 意外なことに、商人たちの多くが、この勧めを肯定的に捉えたのである。

 元より、定住すべき場所を持たぬ、流浪の商人たちだ。
 気質としては博徒に近く、危険はあるが大きな儲けが期待できる事業に、魅力を感じたのかもしれない。
 また、成立の契機からすれば、彼らはギルドの世襲化によって野へ弾き出された溢れ者であり、都市に居を構える商人への反感もあったのだろう。

 護衛としてリザードマンが付くというのも、魅力の一つであった。
 スニエークからタブロタを結ぶ街道は、盗賊の類や野盗騎士が多く出没していたからである。

 騎士を名乗りながら隊商を襲うとは矛盾しているようだが、当時の大陸では倫理に反することではない。
 何故なら、商業に携わる者全般が下賤なものと捉えられており、彼らから物資や金銭を略奪することは『富をあるべき場所へ戻すこと』であったからだ。
 この場合、あるべき場所とは騎士の懐なのだが。

 また、牙蟲が亜人の村を改革して以来、商人や遍歴職人はこの場所で多くの時間を過ごしていた。
 曲がり形にも、屋根のある宿と温かい食事を提供してくれた者への、一種の恩義が商人たちにもあったのかもしれない。

 様々な事情と思惑があって、自由商人の一団は牙蟲の提言を受け入れたのであった。
 そうと決まれば、彼らの行動は迅速である。
 数日後には、ツェントル産の鉄器や、困窮した貴族が手放した宝石、貴重な香辛料を担いで、商人らは亜人の村を発ったのであった。

 この時、牙蟲や自由商人にとって幸運であったことは、北部山岳域にはそれなりの道が既に存在していたことである。
 山岳信仰の名残らしく、途中、滝や巨石と出会うこととなる道であったが、隊商にとって助けとなったのは間違いない。
 或いは、そこまで織り込んでの、牙蟲の策であったのかも知れなかった。

 隊商が旅立ってから、暫くは平穏な日々が続いていた。
 亜人が荒れ地を開墾し、黒旺と牙蟲が兵を鍛え、商人や職人が出入りする。
 その様な日々である。

 勿論、情勢は刻一刻と動いており、表面上の穏やかさが内実をそのまま反映しているわけではない。
 思惑や願望や権益が絡み合い、混ざり合っていたのが当時の東夷であり、ごった煮の鍋のような状況だったのである。
 恐らく、東夷における各国家の動静を全て把握していたような者は、同時代、存在していなかったであろう。

 それでも、国策に関わる者や、その周辺に纏わり付く者たちは、不充分ながら有用な情報を保持していると自負していた。
 だが、それを打ち砕く事態が、スニエークの北部、ベゲモートの喉と呼ばれる砦からやって来たのである。

 それは、亜人の村を発った商人の一団であった。
 一カ月以上を掛けて、北部山岳地帯を抜けたのである。

 然も、彼らの周囲を、砦のリザードマンたちが護衛していたのであった。
 二十体はいるであろうか。

 薄い雲が浮かぶ空に向け、一つの旗が掲げられていた。
 竜の紋章が染め抜かれた旗である。

 長い胴を持った竜だ。
 四本の脚と蝙蝠のような翼を持っており、脚には鋭い爪を持った指が三本あった。

 漆黒のその竜が、頂に雲を抱く山に巻き付いている。
 黒鱗騎士団の旗幟であった。

 率いているのは、頭部を兜のような角と外骨格で覆われたリザードマンである。
 鱗が、燃え盛る炎を封じたような色合いをしていた。

 赤と黄、紅と橙。
 それらが絶妙な割合で雑じり合い、そのリザードマンは火焔から生まれた龍神のように見えた。

 リザードマンは赫炎と名乗り、隊商を引き連れて、砦からスニエークの国境に向かったのである。
 国境警備の騎士団は混乱した。

 傭兵としての契約を黒旺配下のリザードマンと結んではいたが、赫炎の行為は明らかな領域侵犯である。
 敵対行動と取られても、不思議ではないのだ。
 それを敢えて行う赫炎の目的、延いては黒旺の真意を量りかねていたのである。

 国境を越え、スニエーク領内に進もうとする赫炎たちを、騎士団は押し止めようとした。
 しかし、北方の警備にはさして多くの人員が割かれていない。
 西には神聖ヴェーラ、南にはプラヴァヤという仮想敵国と交戦国が存在するため、明確な外敵が存在しない北方は手薄なのであった。

 純粋な戦闘となれば、北方警備の騎士団にリザードマンを止める術はない。
 それでも、国境を越えようとする赫炎に向かって、騎士団の長は果敢に抗議をした。

「どの様な信義をもって、貴公は我がスニエークを侵そうというのか。返答如何によっては、我ら、全滅すると雖も貴公との一戦を恐れず」

 対して、赫炎は朗々と答えた。

「我らは隊商護衛の任にある。我が君主の恩威を頼る非力な博労を捨て置くは、正に信義にもとるが故なり。退かれよ、我ら無用な血を望まず」
「異な事を。貴公の君主とは誰か」
「聖殿国王家の正統を継ぐイスティナ・ヴェリクレスト殿下である」

 はっきりと赫炎は言った。
 イスティナ・ヴェリクレストとは、黒旺に降嫁した幼い姫君のことである。
 スニエークの騎士団長が更に尋ねた。

「民も土地も無き者を君主とは言わぬ。貴公が拠る国は何処か」
「殿下がしろしめしておられるのは、タブロタからスニエークに渡る北の山々よ」
「何?」

 思わず、声を上げる。
 それはつまり、タブロタ、神聖ヴェーラ、スニエークの三国が頭を押さえられたと言うことであった。

「我は殿下の命に従うのみ。退かれよ」

 再度、赫炎は言った。
 事がリザードマンの暴走であれば、騎士団としてはそれを止めねばならない。

 だが、彼らが一国を成し、その君命によって動いているのなら、単なる騎士の手には余る。
 そもそも、か弱い姫をリザードマンが祭り上げ、国家を標榜するなど前代未聞であった。
 悪質な詐術に引っ掛かっているような、明文化できない不安が胸の中に渦巻く。

 騎士団長の逡巡を無視し、赫炎と隊商はその脇を抜けていった。
 当然であるかのように、関を越えていく。
 国境警備の騎士団は、黙って、それを見送るだけであった。

 そして、赫炎によって『護衛』された隊商は、最終的にはスニエークの王都まで進むこととなる。
 事の成り行きを報告されていたスニエーク王に一団は招かれ、大いに歓待を受けた。
 こうして、スニエークのみならず東夷全体が、黒鱗騎士団を知ったのである。

 赫炎の行為は、東夷の地に新たな勢力が誕生したことを高らかに告げるものであり、同時に、既存とは異なる交易路の出現を強烈に印象づけるものであった。
 だからこそ、神聖ヴェーラやタブロタへの牽制の意味を込めて、スニエーク王は赫炎らを歓迎したのである。

 因みに、スニエークの宮廷で隊商が扱った品々は、通常の半値ほどで取引された。
 充分に儲けが出たという。
 それだけ、今までの通関税が多かったと言うことである。

 そして、これ以後、神聖ヴェーラと北部山岳地帯の境では、放棄された荷馬車が何度か見付かることとなる。
 事件と言うほどのものではないが、問題はその荷馬車にタブロタ産の乾し肉や羊毛が積んであったことであった。
 リザードマンの姿も確認されている。

 タブロタとスニエークは、我が国を必要としない交易路を確立するつもりではないか。

 神聖ヴェーラがその様な不安を抱いても無理からぬ所であった。
 冷静に考えるなら、タブロタから亜人の村を経由しスニエークに至る道は未だ貧弱であり、神聖ヴェーラの懸念は、仔犬の影を狼と見間違えているようなものである。

 だが、不信を煽るように山岳域では捨てられた荷馬車が発見され、リザードマンが国境付近を闊歩することもままあった。
 名目は、山岳に潜む野盗の討伐である。
 神聖ヴェーラとしては挑発としか思えない行為であったが、実際に討たれた野盗は存在したし、また、リザードマンの進退は迅速であって、対応のしようがないのも事実であった。

 牙蟲にとある報告がもたらされたのは、その様な状況下でのことである。
 報告、と言っても確たるものではなく、噂話の一つとして、牙蟲の耳に届いたのであった。

「聖三位教会の人間が来ているだと?」

 亜人の村近くに、教会から派遣された者が住み着いたらしいという話であった。
 伝えたのは、ノヤである。
 家で、酒を呑んでいる時のことであった。
 既に夜も更けている。

 隣にはセタが座って、牙蟲に酌をしていた。
 当ては、虹鱒の塩焼きだ。
 村の水路で取ったもので、背びれや胸びれに掛けられた塩が、焦げて固まっている。
 ほこほことした白身をエールで胃に流して、牙蟲は訊き返した。

「騎士か?」
「いえ、修道女だそうです」
「何?」

 ノヤの答えに牙蟲が眉を寄せる。
 神聖ヴェーラが、亜人や黒鱗騎士団への牽制として戦力を送り込んだかと思ったのだが違うらしい。

「親子のような二人だそうですよ。詳しいことは分からないのですが」

 セタが、ノヤの発言を補足する。
 牙蟲の疑念が強まった。

 態々、か弱い修道女を亜人の村に遣わせる意図を量りかねたのである。
 或いは修道女を装っているだけなのかも知れないが、それにしても人数が少ない。

 尤も、件の修道女の情報が曖昧で、何とも判断しづらいのは確かであった。
 ここ最近は変化してきているが、元々、亜人は人間への警戒心が強い。
 その為、直接に修道女と会話した者がおらず、詳細など分かりようがないのであった。

 村の近くに来た二人が修道女らしいと言うのも、偶々、一人の亜人がその住居らしい庵を発見したからである。
 庵と言っても、きっちりとしたものではない。
 雨風が辛うじて防げるような岩の窪みに、粗筵を一枚敷いただけの代物である。

 雨水や、川の水を湧かすための小さな鍋が一つと、欠けた皿が二つ。
 円と十字を組み合わせた、聖三位教会の聖印が一つ。

 この聖印があったことから、教会に関係する人間が住んでいるのだろうと、亜人は見当を付けた。
 後日、庵近くで女二人が歩いているところが見掛けられ、それで、移住者の正体は修道女かもしれないと噂されたのである。

 因みに、リザードマンはこの二人を気に掛けてはいない。
 脅威とするには余りに少数だからだ。
 間諜の危険性もあったが、それならば、雇い主なり本国なりと連絡を取るまで泳がせておこうと考えているらしい。

 それも一つの手であろうが、相手の目的が分からぬまま放置するのは、どうにも据わりが悪い。
 見極める必要があるな、と牙蟲は独りごちたのであった。

 翌日の早朝――。

 村の通りに人集りが出来ていた。
 中心にいるのは、女と幼い少女の二人である。

 二人とも、ダルマティカの上にグロッケと呼ばれる貫頭衣を纏っていた。
 リネン製の頭巾を被っていて、顔だけが露出している。
 生地は丈夫そうではあるが、端々が綻び、どことなく古ぼけていた。
 典型的な修道女の姿である。

 女の方は、三十代の半ばであろうか。
 切れ長の眼をしていて、化粧気が全くないにも拘わらず、目鼻立ちははっきりしていた。
 若い頃は大層な美人であったろうと思われ、現在でも充分に美形である。

 だが、修道院での生活と歳月が、陰のようにその容姿に張り付いており、近付きがたい雰囲気を作っていた。
 目付きが鋭いと言うより、きつい。
 鉄で出来た造花のような女であった。

 一方の少女は、未だ十歳ほどに見える。
 小柄な体付きで、ダルマティカの袖が余っていた。
 肌の色が、無機物めいて白い。
 黒々と濡れた瞳と、ほんのりと赤い唇が印象的である。

 歳に不釣り合いな色香を持った少女であった。
 しかし、その整った顔にはどの様な感情も見受けられない。
 無理に押し殺しているのではなく、元から、外に出すべき感情が存在しないかのように無表情であった。

 この女と少女が、村の通りで亜人たちに囲まれているのである。
 別段、雰囲気は悪くない。
 始まりは、年嵩の修道女が亜人に声を掛けたことであった。

「トゥナ殿ですね」

 いきなり、女はそう言った。
 呼び止められた亜人は、訝しげに女の顔を見る。

 トゥナは、この村の古老であった。
 他の亜人と同じく、獣に似た耳を持っているが、その上半分は無い。
 切れ味の悪い刃物で断ったように、千切れていた。

 肌の色は、水気のない枯れ木にそっくりである。
 眼は白濁して、辛うじて視線が分かる程度であった。
 身に付けているのは、貫頭衣である。

 奇妙に思ったのは、トゥナがこの修道女に会ったことがないからであった。
 初対面で名を呼ばれたことに、違和感を覚えたのである。

 無論、全く有り得ない話ではない。
 自分のことについて、別の亜人に聞いていたのかも知れない。
 村で一番の老人と聞いて、自分の容姿を見れば、ある程度の推測は出来るだろう。

 しかし、それにしても女の口調に迷いがなかったのが気に掛かった。
 呼び止めた相手が、最初からトゥナであると確信した声であったのだ。

「どなたですかな」

 とは言え、呼ばれた以上、無視するわけにもいかない。
 老いた亜人は、誰何した。

「これは失礼を。私はマリーツァ。この子はアルタリです」

 女は名乗り、隣に立つ少女の名も併せて告げる。
 アルタリと言う名の少女は、トゥナを見るわけでもなく、虚空に視線を固定したままであった。
 どうも、外界への興味や関心が極端に低いらしい。

「何のご用でしょう」

 トゥナが更に尋ねる。
 自分より年若い女性相手に下手に出るような口調であったが、トゥナには当然の振る舞いであった。
 亜人が老人になるまで生き延びるとは、そう言うことである。

「牙蟲という蠱術師に会いたいのです」

 その様に、マリーツァは言った。
 トゥナが疑念の表情を浮かべる。

「法師様に……? しかし、何用ですかな」
「勿論、教会の教えを示すためです。蠱術などと言う邪教は祓われねばなりません」

 明確な口調でマリーツァが言う。
 村の古老は、僅かに眉を顰めた。

 村の今があるのは、牙蟲に負うところが大なのであるから、当然の反応と言える。
 しかし、それ以上は態度に表すことなく、トゥナは牙蟲の家がある方向を指さした。

「ありがとうございます。貴方に天主様の恵みのあらんことを」

 一礼して、マリーツァがトゥナの示した方角へ足を進めようとする。

「空豆の収穫は早い方が良い」

 唐突に澄んだ声が発せられた。
 アルタリである。
 しかし、その場にいたマリーツァやトゥナに向けて言ったのではないらしく、変わらず、虚空を見詰めていた。

 驚いたのはトゥナである。
 何故なら、この二人に出会う直前に考えていたのが、畑の収穫を何時にするかということであったからだ。

 全体的な実りは悪くないのだが、場所によってはまだ未成熟な豆が残る畑もある。
 暫く収穫は待とうかとも考えていたが、この時期は不意の豪雨もあり、それでは折角の豆を駄目にしてしまう。
 それで、思案をしていたのである。

 だが、この少女が自分の思案を知っていたとは思えない。
 そんなこととは関係なく、思い付いたことを少女は口にしただけなのだろうか。
 分からなかった。

「アルタリは天主様のご威光を受けています。その言葉を疑ってはなりません」

 見透かしたようにマリーツァが言う。
 そこへ、別の亜人が通り掛かった。

「贈り物は花」

 また、アルタリが言う。
 そう言われた亜人は、ぎょっとして幼い修道女を見遣った。
 心当たりがあるらしい。

 見詰められているアルタリには、矢張り、表情の変化はない。
 意味もなく、亜人の青年はアルタリとトゥナの顔を見比べた。

 畑に出る途上であった村の住人たちが、何事かと集まってくる。
 そして、新たに亜人が来る度に、アルタリが言葉を発した。

「三日後に見付かる」
「明日会える」
「水車小屋に行きなさい」

 少女の言葉はどれも出し抜けであったが、それを聞いた亜人は例外なく顔色を変えていた。
 澄ました顔をしているのは、マリーツァだけである。

 ざわざわと、亜人たちが騒ぎ始めた。
 その声がまた畑仕事に出る亜人を呼び、結果、村の通りに人集りが出来たのである。

「アルタリこそ、聖典に記された預言の巫女シビュラです。その言葉は神の言葉です」

 正に神託の如き一種の放漫さと自信を持って、マリーツァが言った。

「人を知る者は智、自ら知る者は明。果たして巫女はどちらかな」

 修道女の言葉に、良く徹る声が応じる。
 まるで聖なる詩句のように、その声は人集りを割った。

 道が出来る。
 その道の先に男が立っていた。

 司祭が羽織るコープに似たマントを羽織っている。
 そのマントが覆う右腕の箇所が、歪に盛り上がっているのが見えた。
 右眼を固く閉じていて、黒い蓬髪が好き勝手な方向を向いている。
 背後には亜人の女が二人、控えていた。

「貴方は……」
「蠱術師さ」

 問われて、男は気負った風もなく答える。
 マリーツァが好意的とは言い難い目を向けた。
 蠱術師と名乗った男は、その視線を軽く受け止める。

「貴方が、牙蟲ですか」
「まあ、そう言うことになるな」

 真剣味に欠けた調子で、牙蟲は言った。

「淫祠邪教を持って民を惑わす異教徒め! 正しい教えの前に頭を垂れなさい!」

 叫び声に近い言葉が、マリーツァの唇から迸る。
 しかし、その叫びが聞こえていないかのように、牙蟲は平然としていた。
 マリーツァの傍らに立つ、アルタリをちらりと見る。

「ふむ」

 小さく、牙蟲が頷く。
 蠱術師と小さな修道女の視線が交錯した。
 今まで、何ものにも興味を示さなかったアルタリが、牙蟲を凝視する。

 しかし、その顔は変わらず無表情であった。
 小さな唇が、何かを言いたげに動く。

 また、預言のような、心を覗いたような言葉を告げるのだろうか。
 その場にいた亜人の誰もがそう思っていた。

「アルタリ、この邪な男に神罰を下すのです。天主様の御心に沿う行いを為すのです」

 マリーツァの言葉など聞こえていないように、牙蟲はアルタリを見ている。
 牙蟲は、閉じていた右眼をゆっくりと開いた。
 それを見たマリーツァが辟易ろぐ。

 見開かれた右眼が、常人の倍以上の大きさであったからだ。
 それだけではない。
 眼窩の中にあるのは、血のように赤い色をした三つの瞳であった。
 蜘蛛や蠍の単眼のようなそれが、眼窩を自在に動き回っている。

 三つの瞳が、獲物に気付いた甲虫の動きで、小さな修道女を視界に収めた。
 横に並んだ赤い目玉に、アルタリの姿が歪んで映る。

「神罰を下すのです。アルタリ、神罰を下しなさい。神罰を! 神罰を! 神罰を!」

 マリーツァが繰り返す。
 少女が何かを言おうとした。
 だが、言葉が発せられることはない。

 牙蟲がコープを跳ね上げて、右腕を露わにした。
 奇怪で、不気味な輪郭を持ったものがそこにあった。

 辛うじて、それは腕と分かる。
 だが、人間の腕とは似ても似つかなかった。

 まず、ごつい。
 全体が太く、大きかった。
 表面を板金のような外骨格が覆っており、肘や肩からは、角のような、牙のような突起が伸びている。

 肘から先が長く、自然に垂らすだけで、指先は地面に触れていただろう。
 その指は、三本しかない。
 代わりに、これも太く、先端が鋭く尖っていた。
 人を襲うほどに肥大化した、甲虫の顎のようにも見える。

「一切の蠱を縛す」

 三本の太い指を握り、牙蟲が静かに言った。
 細かな震えが、アルタリの身体に広がる。
 ふ、と少女の震えが治まった。
 そして、次の瞬間には、糸の切れた操り人形のように、アルタリは倒れ伏したのであった。

 周囲の亜人が、どよめく。
 当然ではあった。
 混乱に拍車を掛けたのは、マリーツァの言動である。

「どうしたのです、アルタリ。神罰を与えなさい。今すぐに神罰を。神罰を神罰を神罰を神罰を」

 何かの箍が外れたようにマリーツァは同じ言葉を繰り返した。
 表情に変化がないのが、不気味である。

 不意に、ぐるりとマリーツァの目が裏返った。
 白目を剥く。
 そのまま、仰向けに倒れた。

 当惑して、周囲の亜人が顔を見合わせる。
 後ろで見ていたセタとノヤにも、何が起こったのか分からなかった。
 牙蟲だけが落ち着いて、右腕をコープの内側に仕舞い、右眼を閉じる。

「見せ物は終わりだ。おまえらも仕事があるんだろう、さっさと行け」
「で、でもよう、ありゃあ一体……? この娘はほんとに神さまの遣いか何かなのかい?」

 日に焼けた肌をした亜人が、困惑顔で牙蟲に尋ねる。
 人の好いとは言い難い目付きで、牙蟲がその亜人を見た。

「方寸の上っ面を覗くぐらいなら、俺にも出来る。やってやろうか?」

 事も無げに、牙蟲は言う。
 亜人たちが我に返ったような表情をした。

 確かに、この蠱術師ならそれぐらいのことはやりそうである。
 酒が抜けた酔漢のように首を振り、亜人は三三五五にばらけていった。
 後には、牙蟲とセタとノヤ、倒れた修道女が残される。
 
「き、牙蟲さま」

 それに気付いたセタが、声を上げた。
 修道女が一人しかいない。

 あの少女の姿は何処にもなかった。
 慌てるわけでもなく、牙蟲は年嵩の修道女を軽々と抱え上げる。

「何、今夜辺り会えるだろうよ」

 意味ありげに、牙蟲は言ったのであった。
 そして、夜――。

 牙蟲は自分の家で、酒を呑んでいる。
 調度が増えたわけでもなく、質素なところは変わっていない部屋であった。

 壁には燭台が掛けられていて、小さな炎が揺らめいている。
 寝台代わりの架台と、水の入った甕が部屋の隅に置いてあった。

 ただ、普段と違うのはその架台に、横たわっている人間が居ることであった。
 朝の騒動で倒れた修道女――、マリーツァである。

 牙蟲が自分の家に運んだのだが、それから、目覚めることなく寝ているのであった。
 水で口元を濡らしたり、頬を軽く叩いたりしたのだが、それでも起きない。

 異常であった。
 しかし、牙蟲は別段心配するわけでもなく、放っている。
 どうやら、何か考えがあるらしい。

 その牙蟲の横には、今、セタとノヤが居て、酒を注いだり、料理を皿に分けたりしていた。
 コンキクラと呼ばれる豆料理である。
 貝殻型の容器に盛られるのが特色だ。

 胡椒、ラビッジ、ディル、乾燥させた玉葱を磨り潰し、魚醤とワインを混ぜてソースを作る。
 作ったソースにエンドウ豆を浸し、味を染み込ませてから卵を投入、固まるまで加熱する。
 それで出来上がりである。

 胡椒や魚醤は自由商人から購入したものだ。
 豆やハーブは村で採れたものである。

 それを当てにして、牙蟲は酒を呑んでいた。
 酒はエールを蒸溜したもので、かなりきつい酒だ。
 だが、牙蟲の呑むペースは普段と変わらない。

「あの、牙蟲さま」

 セタが遠慮がちに呼ぶ。

「何だ」
「朝のあの少女のことなのですが」
「うむ」
「あれは、一体、なんだったのでしょう」

 弟子の問い掛けに、牙蟲は直接答えず、逆に問う。

「おまえは、どう見た」
「わたしは……」

 朝の光景を思い出しながら、暫しセタは考えた。
 おずおずと言葉を続ける。

「人ではないのでしょう。ただ、何処か歪でした。上手くは言えないのですが……」

 セタの言葉に、牙蟲は頷いた。
 それから、酒の追加を持ってきたノヤにも同じ質問をする。

「わたくしは、セタさんと違って、見えるものしか見えませんが宜しいのですか」
「構わんさ。寧ろ、それが良い」
「では……」

 自分の印象を胸中で整理して、ノヤが言葉を探した。
 架台の上で寝ているマリーツァをちらりと見て、口を開く。

「わたくしが疑問に思ったのは、あの二人の関係です」
「ほう」
「わたくしのような亜人は、人間を見るとき、常に考えるのです。この方は上位にいるのか下位にいるのか、主なのか従者なのか」
「ふむ」
「率直に言えば、媚びるべき相手は誰かを、判断しているのです。浅ましいとお笑いでしょうが」
「いや、そうでなければ生き延びられまい。それも才の一つだ」

 ありがとうございます、とノヤは牙蟲に礼を言った。
 何処か、寂しげではあったが。

「ですが、わたくしがあの二人を見たとき、違和感を覚えました」
「どの様な?」
「互いを主としている従者のように見えたのです。少女の語りは勿論ですが、あの修道女の言葉にも己というものが感じられません」
「成程」

 牙蟲が首肯する。
 ふう、と酒の匂いのする息を吐いた。

「矢張り、おまえたちは眼が良いな。正に、奴らはそういうものだ」
「どういう事でしょう」

 セタが尋ねる。
 ノヤの表情にも同じ疑問が浮かんでいた。

「あの、アルタリという名の修道女は人蠱さ。人の心を覗いて、それを喰う類だな」

 牙蟲が口にした単語にセタは息を呑み、ノヤは不分明な色を顔に浮かべる。
 気付いたセタが、視線で牙蟲に説明を求めた。

「蠱毒を人間でやったものが人蠱だ」

 言って、牙蟲は蠱毒についてノヤに語った。
 まず、手頃な大きさの壷を用意する。
 それから、蛇や蜘蛛や蠍と言った有毒の動物を大量に集めて、壷に閉じ込めるのだ。

 餌も何もない壷の中のため、閉じ込められた動物は共食いを始める。
 そして、最後に生き残ったものは、集めた動物の精や毒を凝縮した存在と成るのである。
 これを呪詛の道具として利用するのだ。

 簡単に言えば、この様な術である。
 壷に用いる素材や、封をする際に使用する札、埋める場所や日時など、呪術的な制約や約束事はあるが、そこまでは牙蟲は語らない。

「では、教会にも蠱術を使う者がいると?」

 不安げにノヤが訊いた。
 この村の発展には牙蟲が大きく関わっており、その牙蟲と同じ蠱術師が教会にいるかも知れないというのは、恐怖に近い感情をノヤに抱かせる。
 しかし、牙蟲は頭を振った。

「術者が手掛けたにしては中途半端すぎる。教会には蠱術を知っている奴はいないだろうよ」
「では、どうして?」
「偶々出来たんだろう。知らずに蠱術が成ることは少なくないからな」
「あ、あの、牙蟲さま、人蠱と言うことは人を何処かに閉じ込めたのですか?」

 恐る恐る、セタが尋ねた。
 蠱毒の作成法からすれば、人蠱を造り出すというのは、かなりおぞましいものを想像してしまう。

「いや、あれは人間を壷に見立てた蠱毒だ」
「人間を壷に?」
「一人の人間の中で、魂魄をばらばらにして、共食いさせたのさ。それで、出来上がったのが今朝のあれだ」

 あっさりと言うが、中々にこわいことを牙蟲は口にした。
 人間同士を互いに食ませるのと、一人の心を破壊するのとでは、どちらがましなのだろうか。

「まあ、その辺は当人が来れば、確かめればいいことだ」
「来るでしょうか」
「来るさ。どういう訳か知らんが、あの修道女は互いに依存している。無自覚に人蠱を使役しながら、己の魂も喰らわせているんだ。片割れがここにいる以上、必ず来るだろうよ」

 自信を持って、牙蟲は断言した。
 再び、蒸留酒を口にする。

 更に時間が過ぎた。

 窓から見える月が、大分傾いている。
 部屋にいるのは、牙蟲と、架台で眠り続けているマリーツァだけであった。

 セタとノヤは、隣の部屋で既に寝ている。
 起きていようとしていたのだが、何故か猛烈な眠気に襲われてしまい、耐え切れなかったのだ。
 人蠱が近付いている証拠だ、と牙蟲は言って、二人を休ませたのである。

 その牙蟲自身は、部屋の中央で黙然と座していた。
 結跏趺坐と呼ばれる、異教の修行で為される座り方である。
 両眼を閉じているものの、眠っているわけではないらしい。

 ふと。

 ぎしり、と乾燥した木が軋む音がした。
 牙蟲の背後からである。
 しかし、牙蟲の様子に変化はない。

 月光が遮られた。
 今まで寝ていたはずのマリーツァが、架台から立ち上がっていたのである。
 その影が自分に落ちても、牙蟲は眼を閉じたままであった。

 ゆっくりと、修道女が近付いてくる。
 マリーツァの表情は虚ろであった。
 眼は何処も見ていないし、瞳には何も映っていない。

 切れ長の眼は朝と変わらないが、口元が軽く開いていた。
 小さな赤い舌が、そこからちらちらと覗く。

 牙蟲が右眼だけを開いた。
 常人の二倍以上はある眼窩の中で、三つの瞳が動いている。
 それぞれの瞳が、背後ではなく正面を見据えた。

「下らん幻戯を仕掛けるな」

 その言葉が終わると同時に、牙蟲の単眼が赤光を放つ。
 陽炎のように、血の色をした光がゆらりと立ち昇った。

 次の瞬間、背後に立っていたはずのマリーツァの姿が消えていた。
 何事もなかったかのように、架台の上で静かに寝息を立てている。

 代わりに、牙蟲の眼前に少女が一人立っていた。
 典型的な修道女の服装を身に纏った少女だ。

 アルタリである。
 黒々とした瞳で、牙蟲を見つめていた。
 朱を乗せたような唇に、不相応な色香がある。

「通じない?」
「まあな」

 ふわりと、アルタリが座る。
 牙蟲は左眼を閉じたままだ。
 緋色の単眼が、少女の姿を映している。

 少女が狭い部屋を興味深そうに見回した。
 再び、視線を牙蟲に戻す。

「不思議」

 呟いた。

「何がだ」
「ここは、声が聞こえない」
「そうか」

 大して気に留めた風もなく、牙蟲は言った。
 右眼だけを開いた牙蟲は、輪郭は人のそれであるのに、異形の怪物そのものに見える。

「家というものは、一種の結界だからな。外の声は入らない」
「あなたの声も聞こえない」
「己の心を御するのは術の基本だ。垂れ流しにはせんさ」
「不思議」

 もう一度、アルタリが言った。
 小首を傾げている。

「声が聞こえるようになったのは、何時からだ」

 牙蟲が尋ねると、アルタリが目を瞬かせた。
 質問の意味が分からなかったらしい。

「普通の声と胸裡の声、区別は付くか」

 質問の角度を変えて、牙蟲が再度尋ねた。
 幼い修道女は眉を顰める。

「良く……分からない。何時も声が聞こえているから。みんなもそうじゃないの?」

 逆に訊き返した。
 牙蟲の異形の右眼が、アルタリの白い面を見詰める。

「雑な術を掛けやがる……。おまえ、今まで何を喰ってきた?」
「罪」

 簡潔にアルタリは答えた。
 何かに思い当たったのか、牙蟲は後ろで寝ているマリーツァに視線を送る。

「あの女の罪も喰ったのか?」

 こくん、と素直にアルタリは頷いた。

「何の罪を?」
「姦淫」

 又しても返ってきたのは、簡素な答えである。
 溜息を一つ、牙蟲は吐いた。
 アルタリが言葉を続ける。

「修道女はわたしに告解をする。みんな、わたしに告解する。わたしはそれを聞く。ずっと聞き続ける。その後は、聖典を読む。姦淫の告白を聞いたわたしの魂が、浄化されるまで」
「どれぐらいの間、聖典を読むんだ?」
「一週間、眠らずに」

 その答えに、牙蟲の赤い右眼がぐるりと動いた。
 血のような赤い色が淀んでいる。

「それで人蠱と成った訳か。無茶苦茶だな」
「?」

 何を言われたのか分からないようで、アルタリは牙蟲を見返した。
 修道院は基本的に閉鎖された空間である。
 そこで、修道女の妄念とも言うべき情欲の衝動と、無味乾燥な聖典の語句を刷り込まれ続けたのだ。
 アルタリが出来損ないの人蠱となったのも、無理はないのかも知れない。

「おまえ、このままだと先は長くないぞ」
「知っている。先代も、わたしと同じぐらいの歳に天主様の元へ行った」

 つまり、死んだと言うことである。
 牙蟲が先刻よりも深い溜息を吐いた。
 苦々しげな表情を牙蟲は見せる。

「自分の欲を他者に丸投げするとはな、愚物どもが」

 吐き捨てた。
 ふと思い付いて、牙蟲がアルタリに尋ねる。

「おまえ、修道女の告解を受けるんだな」
「そう」
「おまえ自身はどうなんだ。欲はあるのか」
「ある……と思う」

 確信に欠ける言い方であった。

「はっきりしないのか?」
「告解の時、身体の芯が疼く。でも、それは修道女の声かも知れない。わたしの声かも知れない」

 どうやら、他者の心と自分の心の区別さえ、曖昧になっているらしい。
 良い兆候とは思えなかった。
 敢えてそれを追及せず、牙蟲は更に問いを重ねる。

「此処に来たのは、あの修道女の独断か」

 こちらも重要事であった。
 二人の修道女の背後に、タブロタや神聖ヴェーラが控えているのなら、相応の対処が必要だからである。
 尤も、牙蟲自身はマリーツァがアルタリを連れ出したのだろうと見当をつけていた。

 目立ちすぎなのだ。
 アルタリの能力によって亜人に取り入り、村を切り崩すつもりなら、もっと巧妙に振る舞わなければならない。

「そう。マリーツァがわたしに言った、異教を討たねばならないと。だから、この村に来た」

 案の定、アルタリは答えた。
 これが事実かどうかを確認する必要はあるが、少なくとも有力な情報を牙蟲は手に入れたことになる。
 自我が失われつつあるアルタリが、虚言を弄することも考えにくかった。

「お腹が空いた」

 唐突に、アルタリが言う。
 そして、視線を牙蟲の背後にある架台に遣った。
 マリーツァが寝ている架台である。

「告解の時間か」
「そう」

 答えて、幼い修道女は眠っているマリーツァに呼び掛ける。

「起きて」

 ゆっくりと、マリーツァが上半身を起こす。
 今度は、幻術でも何でもなく、実際に目覚めたらしい。

「告解の時間」

 言うと、マリーツァが眼を開いた。
 切れ長の眼が、アルタリを見る。
 ふ、とやけに熱っぽい吐息がマリーツァの唇から漏れた。
 
「罪を悔い改めよ」
「罪を悔い改めよ」

 アルタリが言うと、それにマリーツァが続く。

「己の罪を悔い改めよ」
「己の罪を悔い改めよ」

 徐々にアルタリとマリーツァの声が、重なるようになっていった。
 それに連れて、修道女の頬が上気していく。
 部屋の空気が妙に湿ったものに変わった。

「む」

 背中越しに、床を何かが這っていくのに牙蟲が気付く。
 肉の色をした蛇のようなものだ。

 古い油を塗ったように、表面がぬらぬらとしている。
 大人が、片手で握れるぐらいの太さであった。

 眼や口に当たるものは見当たらない。
 だが、先端は明らかにアルタリに向かっていた。

 尾は見えない。
 何故なら、肉の蛇の胴体部分は、マリーツァの修道服の中に収まっていたからだ。

 つまり、肉蛇の本体はマリーツァの服の中にあるということになる。
 だが、マリーツァをこの家に運んだとき、こんな不気味なものは何処にも潜んでいなかった。

 更に、這い出てくる蛇の数が増える。
 それに連れて、マリーツァの上気した頬が益々赤らんでいった。
 吐息が連続して漏れる。
 どう見ても、男に愛撫されている女の表情であった。

 無論、背を向けている牙蟲にはその顔は見えない。
 代わりに、アルタリに肉蛇が絡み付く様を見ることとなった。

 十を越えるか越えないかの少女の足首に、眼も口もない蛇が絡む。
 びくり、とアルタリの身体が反応した。

 蛭かナメクジのような動きで、肉蛇が少女の服の中へ進んでいく。
 もぞもぞと修道服の下で、肉の蛇が蠢いていた。
 ふ、とアルタリが息を漏らす。

「罪を……」

 蕩けたような声で、アルタリが言った。
 口をぽっかりと開けて、マリーツァが答える。

「姦淫の罪を」

 天井を仰いで、喘ぐように言った。
 ぶるぶると、肉の蛇が震えている。

「成程な」

 牙蟲が面白くもなさそうに言って、床をのたうつ蛇を掴んだ。
 不気味な柔らかさを持っており、硬い芯の手応えはない。
 べとついた感触が、汗に濡れた人肌のようであった。

「自分の性欲ぐらい自分で始末しろ」

 言って、牙蟲が小さく何事かを唱える。
 異国の呪禁らしい。

 一瞬、蛇の姿が霞のようにぼやけた。
 矢張りこの世のものではないのだろう。

 不意に、肉色の蛇がアルタリの身体から離れた。
 火の点いた棒を、押し付けられたかのような反応である。

 巣穴に戻る蛇そのものの動きで、マリーツァの元へ戻った。
 そして、修道服の上からその身体に絡み付く。
 ひ、と悲鳴のような声をマリーツァが上げた。

 肉の蛇が、修道服の上からマリーツァの胸を揉みしだく。
 逃れようと身体を捩るが、動きは弱々しかった。
 朝はきつかった切れ長の眼が、今は蕩けたような光を放っている。

 蛇が揉んでいる胸の隆起は、かなり豊かであった。
 乱暴に、蛇が修道服を裂く。

 意外なほど白い色をした双丘が露わになった。
 大の大人が両手で掴んでも、たっぷりと余るほどの大きさをした胸である。

 年齢のため、少し形が崩れていたが、それが却って扇情的であった。
 先端の乳首は薄いピンク色である。

 全く、異性に触れられていないらしい。
 そこへ、肉蛇が遠慮無く巻き付いた。

 締め上げると、ぐねぐねと胸の形が変わる。
 てらてらと光る粘液の跡が、乳房に残った。

 呼吸を荒げるマリーツァの口元に、蛇の頭がそろそろと這い寄る。
 ずるりと、口腔に入り込んだ。

 一本だけでなく、二本、三本と無遠慮にねじ込まれていく。
 苦しそうな、くぐもった声がマリーツァの少し厚めの唇から漏れた。
 それには無頓着に、眼のない蛇が激しく前後に動く。

 マリーツァの口の端から、だらしなく涎が溢れた。
 複数の蛇が、性器のように修道女の口を使って、己自身を扱いている。

 ぶるぶると震えた。
 だが、その先端から何かが吐き出されるような気配はない。

 もどかしげに、蛇が頭を左右に振った。
 腰が抜けたように、マリーツァがしゃがみ込む。

 ダルマティカの裾を切り裂いて、マリーツァの脚を蛇が露出させた。
 するすると脚の付け根に伸びていく。

 緩く肉の付いた脚が、蛙のように大きく広げられた。
 飾りも何もない下穿きが、剥ぎ取られる。

 その間も、マリーツァの口は蛇の頭が出入りし、豊かな胸は形を変えて弄ばれていた。
 マリーツァの股の間は、ぐっしょりと濡れている。

 年相応に熟した淫裂が、とろりとした粘液を垂らしていた。
 そこへ、飢えた野犬が腐肉に食らい付くかのように、肉蛇が鎌首を突っ込もうとする。

 歪な肉の塊が、女の瑞々しい秘所に潜り込む――、ことはなかった。
 肉の裂け目に自分の頭を宛がうのだが、ぐにゃりと曲がってしまうのである。

 もどかしげに、肉の蛇は何度もマリーツァの女陰を擦った。
 まるで焦らされているようで、切ない声がマリーツァの唇から発せられる。
 悲鳴のような、声だった。

「いや、こんなの……、どうして」

 苦しそうに、左右に頭を振る。

「そりゃな、今までちっこいガキに欲情した自分を放り投げて来たんだ。暫く悶えていろ」

 背中越しに、牙蟲が言った。
 牙蟲の赤い瞳は、アルタリを見ている。
 少女は、放心したように床に座り込んでいた。

「どうだ、情欲はあるか。快楽を欲するか?」

 荒野で聖人を試す悪魔のように、牙蟲が問う。
 三つの瞳が、幼いアルタリを赤く照らしていた。
 こくん、と小さく少女が頷く。

「そうか、ならばこちらへ来い。おまえが望むものを俺が与えてやろう」

 低く、穏やかな声で異形の蠱術師が誘う。
 部屋の暗がりを怖がる幼子そのままに、アルタリは後退りした。

「駄目。それは……いけないこと」
「何が?」
「快楽に溺れること。肉の悦びを得ること」

 く、く、く、と牙蟲が笑う。

「聖典にそう記されているからか? 人の世の愛は、神への愛を減じさせるか? この世界を完成させるのに、五根五境は障碍となるか?」

 一息に言われ、アルタリは黙り込む。
 蠱術師の言葉は、聖典にある語句そのままでもあった。

「わ、わたしは……」

 反論しようとして、自分の胸中に語るべき言葉など何もないことに、アルタリは気付いた。
 何もない。

 自分の中には、聖典に記された文言以外に何も見当たらなかった。
 それは何も語らず、何も告げない。
 ただ、そこにあるだけだ。

「善も悪も、正も邪も、それを決めるのは人の理よ。神は何も言わぬ」
「でも、聖典は、天主様の言葉、だから……」

 言い掛けたアルタリを、牙蟲が右手を挙げて遮った。

「人の文字で記された、不完全な代物だ。聖典を巡って、誰もが迷っているだろう? 神の御心は那辺にありや、とな」

 今度こそ、アルタリは沈黙する。
 白い、異界の怪物のような右腕がアルタリに向けられていた。
 三つの太い指が、飢えた猛獣の顎のように開く。

「砕かれた魂と半端な化生の残滓よ。おまえはこのまま、消え失せるのか? ただ余人の欲望に呑まれ、虚ろな真理に殉じるか、僅かに残った己の欲に従うか、選べ」

 震えながら、自分の視線が牙蟲の瞳に吸い寄せられるのを、アルタリは実感していた。
 目を逸らすことが出来ない。

 知らず、少女は異形の蠱術師に躙り寄っていた。
 手を差し出す。

 鋭い牙のような指と、アルタリの華奢な指が触れ合った。
 握る。

 倒れるように、アルタリは牙蟲の胸にしがみついていた。
 小さな胸の先端が、痛いほど硬くなっている。
 それがダルマティカの裏地で擦れる度に、甘い刺激が走っていた。

 綱を解かれた発情期の犬のように、アルタリの呼吸は荒い。
 舌を伸ばし、牙蟲の頬を舐めようとした。

「少し待て」

 牙蟲が言うと、小さな修道女の顔に露骨な失望が浮かぶ。
 頭巾が揺れていた。

 苦笑いしながら、牙蟲がアルタリと唇を合わせる。
 舌がぞろりと伸びて、口の中を啜った。

 口腔で自分の唾液とアルタリの唾液を混ぜて、喉へ流し込む。
 びくびくとアルタリの身体が震え、背を反らした。

 舌を引き抜くと、牙蟲とアルタリの口同士が、粘っこい糸で繋がる。
 ゆっくりと焦らすように、牙蟲がアルタリの口元を指でなぞった。
 その指先をアルタリがしゃぶる。

 もぞもぞとアルタリは両脚を摺り合わせていた。
 牙蟲がその脚を開かせ、自分の腰の上に乗せる。

 ダルマティカの中で、アルタリが牙蟲の脚衣を下にずらした。
 太い男根をアルタリが握る。
 ぎこちなく愛撫し、柔らかいままのそれを自分の未成熟な女陰に入れようとした。

 勿論、挿入は出来ない。
 泣きそうな顔をアルタリはした。
 は、は、は、と乾きに耐えかねた犬のように息を切らせている。

 少女の中に、全く制御できない衝動が渦巻いていた。
 体中が火照り、真っ白だった肌に血の色が透けている。

 牙蟲が、懐から短冊状の小さな紙切れを取り出した。
 大人の人差し指ぐらいの長さである。

 そこに牙蟲が息を吹き掛けると、忽ち、模様が浮かび上がった。
 象頭人身の奇怪な異形の周囲に、同じく獣の頭部を持ったものたちが跪いている図像である。
 その数、百体。
 しかも、全ての異形が五色の縄で縛られていた。

 その短冊を、牙蟲はアルタリの秘裂の中に指ごと押し込む。
 笛のように高い声を、少女が上げた。

 ひゅうひゅうと咽喉から音が漏れる。
 ぶるぶると身体が痙攣していた。
 眼の焦点が合っていない。

 挿入された異物が、アルタリの中で蕩けていった。
 子宮が熱くなる。

 途轍もない快楽が、アルタリの身体を蹂躙していた。
 異物を押し込まれた自分の膣から、絶え間なくそれがやって来る。
 然も、絶頂に至ることがなかった。

 股間からは止めどなく愛液が溢れ、だらしなく開いた口からは涎が溢れていたが、いくことが出来ないのだ。
 快楽が頂点に達したと思うと、更に大きな肉欲の波が少女を襲うのである。

 淫水でふやけた秘裂を、アルタリは繰り返し牙蟲の陽根に擦り付けた。
 その動きが更に愉悦を生んで、切なげな声をアルタリが吐く。

 徐々に、牙蟲の男根が勃ち上がっていった。
 その先端が、何度か少女の未熟な性器に浅く潜る。

 アルタリが熱い息を吐いた瞬間に、牙蟲は腰を突き上げた。
 肉の槍が、アルタリの幼い身体を貫く。

 幼い修道女の身体を、信じられないような快楽が襲った。
 今までの刺激が単なる前戯だったことを、アルタリは思い知らされたのである。

 陽根は一気に処女膜を破って、子宮口まで達していた。
 少女の膣は失禁したかのように濡れていたが、身体の幼さも相俟って、侵入してきた異物をがっちりと締め付けている。
 醜悪な肉棒が、その半ばまで少女の秘裂に突き刺さっていた。

 アルタリの子宮口が、牙蟲の亀頭に吸い付く。
 牙蟲がゆっくりと腰を引くと、少女の膣全体が別の生き物のように震えた。

 えらの張った先端が、淫裂に引っ掛かる。
 再度、勢いをつけて牙蟲は自分の陽根を少女に打ち込んだ。
 易々と、少女の一番深いところにまで亀頭が届く。

 絶頂した。
 男根が引き抜かれる度に震え、膣道が抉られる度に叫び、子宮を責められる度に啼く。

 肉と肉との交わりに、アルタリの身体は塗り潰されていった。
 知らず、自分でも腰を動かして、牙蟲の陽根を味わっている。
 何処に当たっても、気持ちが良かった。

 取り憑かれたように、腰を上下させる。
 ごりごりとした感触が、少女の内臓を満たしていた。

 全身が溶けて、肉の快楽に捧げるための道具に成り果てたようである。
 混濁した意識の中で、アルタリは奇怪な幻を見た。

 化物と少女の幻影だ。

※[サイズ大]

 長い鼻面と、ずらりと並んだ牙、黒々とした巨躯。
 針金のように強い獣毛が全身を覆っている。
 そんな獣が、折れそうに腰の細い少女を激しく犯していた。

 あれは、自分だ。
 夢の中特有の、飛躍した直感でアルタリは理解した。

 獣に抱かれ、恥も外聞もなく腰を揺すっている全裸の少女は、間違いなく自分である。
 ごり、とはらわたが押し広げられる音が、丁度、少女の子宮がある場所からした。

 異物が身体の奥に、入り込んでいる。
 ひぎ、と人間離れした絶叫を少女が上げた。

 信じがたい苦痛と、脳が焼き切れそうな快感が、同時に胎内を襲う。
 苦痛こそが快楽であり、快楽こそが苦痛の源であった。
 ごぼり、と火傷しそうな熱を持った塊が、少女の腹の中に吐き出される。

 少女の子宮の中で、獣が達したのだ。
 どろどろとした白濁液が、子宮を満たしていく。

 その刺激が、アルタリの意識を現実に戻した。
 幼い修道女は、神に仕える服装のままで、異形の蠱術師にしがみついていた。
 下腹部が、熱い。

 牙蟲の精を、胎内に注がれているのだ。
 びくびくと震える。

「全てを……」

 知らず、アルタリは言葉を発していた。
 理性ではなく、期せずして造られた化生としての本能が言葉を紡ぐ。

「全てを捧げます、我が主……」

 意識が遠くなっていく。
 疲労と共に、修道院で祈りを捧げていたときには遂に感じられなかった安心感が、アルタリの胸に広がった。

「おまえの命、おまえの力、俺が預かる」

 蠱術師の言葉を聞き、はっきりとした笑みを浮かべて、少女は完全に失神したのであった。
 それを見届けてから、牙蟲は後ろに視線を遣る。

 眼も口もない肉の蛇に絡み付かれて、マリーツァは息も絶え絶えになっていた。
 昂ぶって、これ以上ないほど欲しているのに、それが与えられないのである。

「おねが、おねがいします……、私にも下さい……」
「何を」

 訊き返されて、マリーツァは言葉に詰まった。
 それを口にすることを、長年の信仰が拒否するのだ。

「罪も悪も、己が心の裡より来る。それを見ぬから、おまえは自分自身を犯すことも出来んのだ」

 牙蟲は言い放ち、マリーツァは泣きそうな顔をした。
 朝の居丈高な様子は微塵もない。

 それを赤い瞳で見ていた牙蟲が、軽く首を横に振った。
 マントを外し、それを床に敷いてアルタリを寝かせる。

「ここまで来い。そうすれば、相手をしてやろう」

 何処か、諦めたような口調で牙蟲は言った。
 マリーツァの顔に、明らかな悦びの表情が浮かぶ。
 腕と脚にも肉蛇が絡み付いているため、移動するには芋虫のように這うしかなかった。

 ずるずると、女は床を這って、蠱術師に近付いてゆく。
 遂に、その顔が牙蟲の背中に到達した。
 息が荒いのは、無理な体勢で動いたことだけが理由ではあるまい。

「抱いて下さい、犯して下さい、どうか、慈悲を……!」

 必死に懇願する。
 牙蟲は黙って、マリーツァを抱き寄せたのであった。

 翌朝――。

 亜人の村で、ちょっとした騒動があった。
 場所は何の変哲もない家の、一室である。

 牙蟲とアルタリ、マリーツァが、セタとノヤの前に座っていた。
 珍しく、牙蟲は神妙そうな顔をしている。
 口火を切ったのは、セタであった。

「牙蟲さま」
「何だ」
「左にいらっしゃるのは、どなたですか」
「人蠱のアルタリだ」
「右にいらっしゃるのは」
「修道女のマリーツァだな」

 言わずもがななことを、セタが問い掛け、律儀に牙蟲が答える。
 それ以上、セタが言葉を続けなかったので、妙な間が空いた。
 次に口を開いたのは、ノヤである。

「人蠱であるアルタリちゃんが、牙蟲様のお側に侍っているのは分かります。善しと致しましょう」
「う、うむ」
「しかし、マリーツァさんが寄り添っているのは、どういう事でしょうか」
「いや、それはだな……」

 弁解しようとした瞬間に、脇に控えていたマリーツァが牙蟲の腕を取って、しな垂れ掛かった。
 切れ長の眼に、とろりとした光を湛えて牙蟲を見詰める。

「どういう事でしょうか」

 再度、ノヤが冷静な口調で問う。
 セタなどは、和やかな笑みさえ浮かべて牙蟲を見ていた。

「ま、まあ、その、何だ……」

 久しく感じたことのない重圧を覚え、牙蟲は朝のかなりの時間を、言い訳と弁明に費やすこととなったのであった。

 後に、アルタリとマリーツァは修道院に戻り、自分たちの門派へ、聖典に対する新たな視点を持ち込むこととなる。
 それは、聖典に記された言葉を神のものとして絶対視することへの疑問であり、人間が持って生まれた欲望に、真摯に向き合うことを主張するものであった。

 結果的に、この視点は新たな宗派を生み出す源となる。
 経験や肉体感覚を重視する異教的な要素と、現実的で功利主義的な価値観の融合は、現世における利益や幸福を積極的に称揚し、亜人や人外をも世界の重要な構成要素として受け入れる教えへと成長していったのである。

 異端的な表現、思想が多く見受けられることから、そこに蠱術師である牙蟲の影響を見て取るものは多い。
 また、亜人やリザードマン、獣人が人間社会へ進出し、浸透するに当たって、牙蟲や黒旺がこの教えを利用したことも事実であった。

 その為、後代において、牙蟲はこの様に評されることとなる。
 即ち、蠱術師は二人の修道女を誑かし、己の尖兵とした、と。

 当人としては反論したいところだろうが、アルタリとマリーツァに限らず、この様な事例は、牙蟲の周辺では後を絶たなかったのである。
 あの蠱術師が関わっている以上、何か意図があってのことに違いない――。
 良くも悪くも、牙蟲に対する評は、そういうものなのであった。


                                               了  


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-モドル-