本家[蒼見鳥]  >  もう一つの世界  >   SS  > 【蠱術師、泰山竜王と共に戦野を駈けるのこと】


 

SS:ヴーク



 部屋の中に、独特なにおいが立ち籠めている。
 濡れた吐息と体温で暖められた汗、そして男と女の体液が混じったものであった。
 雄と雌とが絡み合い、互いの肉体を貪り合っているときのにおいである。

 それも、一組の男女が交わっている程度のものではなかった。
 部屋の中で指を開けば、そこに粘っこい糸が引きそうなほど、空気がねっとりとしている。
 どんなお堅い聖職者や学者でも、この空気を吸い込んだだけで、腰のものを屹立させてしまいそうなほどだ。

 部屋自体は、簡素なものである。
 調度が極端なまでに少ないのだ。
 部屋の奥に置かれた銅製の水瓶と、壁際に寄せられた寝台代わりの架台、壊れていたのを修繕したのであろう古い卓ぐらいしか見当たらない。
 窓は鎧戸で、希少で高価なガラスは嵌っていなかった。

 そもそも、この家自体が、鄙びた農村なら何処でも見られるようなありふれた代物である。
 壁は、木製の枠にハシバミの枝を組んだ垣を組み合わせ、そこに粘土や泥を塗って作った泥壁であった。 
 天井は湾曲した木材で屋根を支える造りになっており、強度が保てる分、高い。
 それぞれの部屋を区切っているのは、外壁と同じ泥壁や太い柱である。
 ありふれた農村の一角の、質素な部屋の中で、男と複数の女が交合に耽っていた。

 深更である。
 淡い月光が、窓から染み込むようにして部屋に入り込み、男と女を照らしていた。

 女は四人いて、男に縋るようにして群がっている。
 男は黒い髪を無造作に伸ばしており、硬そうな髪質のせいで、先端が好き勝手な向きに尖っていた。
 左眼の瞳は灰色で、刃物のように鋭い光を湛えており、凶暴な肉食獣のように剣呑である。

 だが、青白い月華に浮かぶ男の姿は、人のものとは大きく異なっていた
 最も目立つのはその右腕であろう。
 恐ろしく巨大で、ごつい。

 一般的な男の体格と比べて数倍は太く、また、自然に垂らしても地に届きそうなほど長いのだ。
 更に、その表面を板金のような外骨格が包んでおり、角や牙に似た突起が、肘や肩から突き出ている。
 先端にある指は三本しかなく、爪と一体化しているため、節足動物の顎を思わせた。
 肉食性の獰猛な甲虫を、無理矢理、人体の部品に仕立て上げたような、不気味な巨腕である。

 そして、右眼も又、異様であった。
 眼窩が常人の倍以上に見開かれ、その中には瞳が三つも並んでいるのだ。
 昆虫の単眼めいて、赤く光を反射している。
 それが、眼窩の中を自在に動き回っているのであった。

 巨大な腕と肩の間からは、大樹の根のような筋肉の束が見える。
 胸の上を光沢の無い薄い膜のようなものが覆っており、割れた腹筋には黒い筋が入っていて、精巧な鎧を想わせる。
 その『鎧』の繋ぎ目には、鉱物のような質感を持った器官が埋まっていた。

 脚も、皮膚が白っぽい樹皮に似たものに変化しており、その表面には細い亀裂が幾つも走っている。
 その亀裂の間から、血の色にそっくりな光が滲んでいた。
 
 化物と、そう称しても異論はないであろう、異形の男である。
 だが、その化物に抱かれている女たちは、決して無理矢理犯されている風ではなかった。

 男に正面から抱き付いているのは、歳の頃なら十代半ばの、小柄な少女である。
 獣のような耳と、獣のような尾が見えた。
 亜人と呼ばれる種族なのだ。

 菫色をした癖毛の間から、少女の耳がある種の犬のように下に向かって垂れている。
 柔らかそうな獣毛で覆われたその耳は、大人しい性格の犬種を思わせた。
 同様に、背中から伸びる尾も柔らかい毛で包まれている。

 体付きはほっそりとしていて、肉は薄い。
 脇腹に、微かに肋骨の陰影が浮かんでいた。
 晴れた空の色をした瞳が快楽に潤んで、男を熱っぽく見詰めている。
 上気した頬が、何とも言えない艶やかさを醸していたが、本来は可愛らしいと評すべき容姿であった。

「牙蟲さま、牙蟲さまぁ……」

 繰り返し男の名を呼び、少女は激しく腰を揺する。
 牙蟲と呼ばれた男の陰茎は、少女の胎内深くに潜り込んでいた。
 少女の細身に相応しい小さな秘裂が、牙蟲の男根にぎっちりと押し広げられて、ぐちゅぐちゅと音を立てている。

 その後ろで牙蟲の背に豊満な胸を押し付けている女も、少女と同じく亜人であった。
 ただ、少女と違ってその耳はぴんと尖っており、犬というよりは猫のそれに良く似ている。
 生えている尾も、細くて長く、猫にそっくりであった。

 歳は二十代の半ばに見え、少女と比べれば随分と大人びた容姿の持ち主である。
 無駄な肉は付いていないが、己の性を主張するかのように、出るべき所はきちんと出ていて、肌には瑞々しい張りがあった。
 瞳と髪の色は透き通るような琥珀色で、顔の造りは繊細である。
 普段なら涼しげな目元が、今は肉欲に爛れて、潤んでいた。

 先程から、牙蟲の鍛えられた背中を自分の胸で刺激しているのだが、乳房の先端が擦れる度にかなりの刺激を女は受け取っているらしい。
 豊かに成長した胸が、押し付けられる度に柔らかく形を変えていた。

 また、牙蟲の両脇には二人の女がしな垂れ掛かっていたが、こちらは普通の人間に見える。
 二人とも、積極的に牙蟲の唇に吸い付いたり、耳朶に舌を這わせたりして弄んでいた。

 牙蟲の右側にいるのは、四人の女の中でも一番の年嵩であった。
 とは言え、三十路を数年越えたぐらいであろう。

 些か背徳的なことに、女は修道女に典型的なリネン製の頭巾を被っていた。
 それ以外に衣服らしいものは纏っていない。
 成熟した女の肌が、夜気に晒されていた。

 首から下がっているのは、古びてはいるがよく手入れをされた教会の聖印で、本当に聖職に就いているようである。
 しかし、女の表情には、聖職にあるものが持つ禁欲さなど欠片も見当たらなかった。

 若い頃は大変な美人であったろうと思われ、今も確かに整った顔立ちなのだが、その表情は淫蕩極まりなかった。
 きつめの目元は肉の芯から湧き上がる欲望に炙られて、物欲しそうに牙蟲と少女の結合部に視線を送っている。

 女の肉付きはかなり良く、胸にも尻にもたっぷりとした重量感があった。
 歳の為か、身体のラインはやや緩んでいたが、それが却って官能的である。

 湧き出す昂ぶりに突き動かされるように、女が牙蟲の耳を噛んだ。
 舌を伸ばして、耳の穴を舐める。
 牙蟲の異形と化した肩に、女のずっしりとした乳房が乗っている。
 重たそうに崩れた形が、淫靡であった。

 左側にいるのは、四人の中で最年少である。
 牙蟲が抱いている少女も若いが、こちらは更に幼い。
 十歳かその辺りに思えた。

 年齢以上に小柄な身体付きで、華奢である。
 牙蟲の右手側にいる女と同じく、修道女らしい頭巾を被っていた。

 肌の色が白磁のように透明感があり、それとは対照的に瞳が黒々としている。
 唇に血の色が浮かんで、赤い。

 幼い外観であるのに、仄かな色気を持った少女であった。
 こちらの少女は先程から、牙蟲の右腕に生えている角をずっと口で愛撫し続けている。
 その様は、丸きり性器に対するものと同じ仕種であった。

 同時に、幼い輪郭を持った腰を牙蟲の腕に擦り付けている。
 ぬるぬるとした愛液が、だらだらと少女の秘裂から零れ続けていた。
 そして、腕の尖った先端に舌先を這わせ、唇で吸い上げる。

 普段は感情の色が見受けられない瞳に、浮かされたような熱が濃く現れていた。
 板金のような牙蟲の肌に歯を立てる。

 腰をゆっくりと突き上げて、抱いている少女の子宮口を、牙蟲のものが押し上げた。
 ぐりぐりとした感触が、牙蟲の亀頭に伝わる。
 それは少女も同じようで、痙攣したように白い裸体を震わせていた。
 応えるように、少女は自分の胎を牙蟲の陽根に押し付ける。

 肌には汗が小さな玉のように浮き、吐く息は熱い。
 逞しい牙蟲の胸に重ねられた少女の膨らみかけの胸は、その先端を痛いほど尖らせていた。

 少女の膣道で牙蟲の陽根が太さと硬さを増す。
 無意識に少女は脚で牙蟲の腰を絡め捕り、肉体の密着度を増した。
 熱く滑った肉襞が、牙蟲のものを一層締め付ける。

 その刺激に、陽根から激しい勢いで精が打ち出された。
 どくどくと、少女の子宮の内部を牙蟲の精液が満たしていく。

 下唇を噛んで、少女がその熱い感触に耐える。
 身体がばらばらになりそうなほどの快楽が、少女の神経を灼いているようであった。

 膣道から、牙蟲がゆっくり自分の陽根を引き抜くと、どろりとした精汁が淫裂から溢れる。
 抜かれる際に、膣壁と牙蟲の男根が擦れて、それが刺激になったのか、少女の身体がびくんと反応した。

「次はわたくしですね」

 背中に抱き付いていた亜人の女が、脇から手を伸ばしてその陽根を握る。
 精を吐き出したばかりにも拘わらず、牙蟲のそれは硬さも角度も失ってはいなかった。

「おい、少しは休ませてくれ」

 牙蟲が言うが、女は無視して両手で陰茎の先端を撫で回す。
 細い指が、男と女の体液が混じったものを、男根の先端に塗りたくった。

「ノヤさん、抜け駆けは良くありません」

 窘めながら牙蟲の腰に顔を埋めたのは、自分のたわわに実った乳房で牙蟲の肩を挟み込んでいた女である。
 ノヤが弄っている牙蟲の陽根には向かわず、陰嚢の方に舌を伸ばして軽く口に含んだ。

「マリーツァも狡い。次はわたし」

 そう言ったのは、牙蟲の右腕で自分を慰めていた少女である。
 マリーツァと同じように腰の辺りにしゃがみ込んで、陽根の根本を舐め始めた。

「アルタリ、はしたないですよ」

 男の性器を口で転がしながら、マリーツァが窘める。
 直接それには返答せずに、アルタリは赤い唇で牙蟲の肉棒を横から食んだ。

 女たちの刺激に、牙蟲の陽根がびくびくと動く。
 それが嬉しかったのか、手や舌を使った奉仕が、益々激しくなった。

 先刻まで牙蟲に貫かれていた少女が、少しばかり不満げな表情を見せる。
 それに気付いた牙蟲が、ぺたりと床に座っている少女を手招いた。
 一瞬、少女は怪訝そうな顔をしたが、素直に牙蟲の方へ躙り寄る。

 無防備に寄ってきた少女の不意を突き、牙蟲が少女の額に口付けをした。
 少女は驚いて牙蟲を見返す。

「まあ、その、何だ。ちょっと休んでろ」
「はい……」

 ぶっきらぼうに牙蟲が言い、やや顔を赤らめて少女が俯く。

「わたくしたちを差し置いて、セタさんと戯れるのは、どうかと思いますが」
「セタだけ、羨ましい。わたしにもキスして欲しい」

 ノヤとアルタリが不平を口にする一方、マリーツァはきつめに牙蟲の陽根を吸った。
 その刺激に、牙蟲が僅かに顔を顰める。
 蜜を求める蟻のように、女たちが牙蟲の身体へ群がった。
 どうやら、女たちの欲望はまだまだ尽きることはなさそうであった。

 翌日――。

 早天と言うにはやや過ぎた頃、村の中心を貫く通りに、人集りが出来ていた。
 集まっているのは、獣の耳と尾を持つ亜人が多い。
 それ以外には、鱗に包まれた巨体が目立つ、リザードマンが散見できた。
 人間の姿は殆どない。

 この村は、亜人の村なのだ。
 元々、迫害に遭った亜人が、意図や目的も無く寄せ集まったのがこの村の始まりである。
 それを普通の村へと仕立て上げたのが、牙蟲であった。

 セタを伴って唐突に現れたこの男が、廃村同然であった集落を勝手に復興してしまったのだ。
 朽ちるに任せられていた家々を建て直し、水車小屋を修復し、畑を開拓していったのである。
 その後、村は星章騎士団を名乗る無法者に狙われるが、それを撃退したのも牙蟲であった。
 正確には村に防御施設を築き、亜人を訓練して迎え撃ったのだ。

 これを聞きつけたのが、東征の名目で追放同然に中央から派遣されていた、リザードマンの一団である。
 リザードマンの頭目である黒旺は、牙蟲を自陣に引き込むことに成功し、以来、村には異形の傭兵たちが駐留するようになった。

 現在では、この村は高い土塁と深い壕に守られた要塞と化している。
 遍歴職人や吟遊詩人も多く村を訪れるようになり、捨てられた亜人が緩やかに死を待つだけの場所は、完全に生まれ変わったのであった。

 その様な村の通りで亜人が集まっているのは、とある人物を見送るためである。
 二人の女だ。

 両者とも、ダルマティカの上からグロッケと呼ばれる貫頭衣を纏っており、肩までを覆う頭巾を被っている。
 典型的な修道女の姿であった。

 昨晩、牙蟲に抱かれていたマリーツァとアルタリである。
 二人は正式な教会の修道女であり、この村を訪れたのは、牙蟲が目的であった。
 何故なら、牙蟲は怪しげな呪術の遣い手として、近隣に知られていたからである。

 この男は蠱術師であった。
 非常に単純化して言うなら、蠱術とは、蠱毒や蟲を操る呪術体系である。
 共食いをさせて精を一つの個体に集め、それを使役し、呪の源とする。
 これが蠱毒と呼ばれる。

 また、どの様な因果か、意図せぬまま、或いは思惑と外れたところから生じる蠱毒もある。
 これを蟲と呼ぶ。

 このようなものに対する知識と技術を持ったものを、蠱術師と呼ぶのである。
 とは言え、蠱術が含む知識の範囲は桁外れに広いようで、牙蟲は様々な事柄に通暁していた。
 天文や本草と言った、呪術との関連性が容易に想像できる分野から、用兵術や料理と言ったものにまで牙蟲の知見は及んでいたのである。

 その牙蟲を、異端の存在として裁くために、マリーツァとアルタリは村を訪問したのであった。
 マリーツァもアルタリも、聖三位教会の正統に属している。
 亜人の村に居座った牙蟲を詰問し、聖三位教に入信させる心積もりであったのだが、結果としてマリーツァもアルタリも、当の蠱術師に心酔することとなったのだ。

 今日は、この二人が元の修道院へ帰るため、旅立つ日である。
 その見送りのために、村の亜人やリザードマンたちも加わったというわけであった。
 蠱術師の愛人となった修道女への好奇心もあったが、マリーツァとアルタリが村の一員となっていたことも事実であり、その場にいた亜人たちは、素朴な感性の発露として別れを惜しんでいる。

「道中、お気を付けて」
「何かあれば、リザードマンの方々を頼って下さいね」

 セタとノヤが、その様に言った。
 修道女は、村から出る自由商人の一団にくっついて、修道院に帰るのである。
 その一団には護衛としてリザードマンが随伴するため、道中の安全はそれなりに確保されていた。

「余計なことには首を突っ込むなよ」

 司祭が纏うコープに似たマントを羽織った牙蟲が、存外に真面目な顔付きで言う。
 昨夜、怪しい赤光を放っていた右眼は閉じられており、魁偉な右腕はコープの下に隠れて見えなかった。

「勿論ですわ。私にはここで得た教えを一刻も早く広めるという務めがございますから」

 艶然と微笑み、マリーツァが答える。
 その表情は、同姓であろうと魅了してしまいそうに、蠱惑的であった。
 しかも、その華やかさの中に淫靡なものがある。

 大輪の薔薇から、毒を含んだ蜜が零れ出たかのようであった。
 惹き付けられるが、その蜜の味を一度でも知れば、最早それ無しでは生きていけなくなるだろう。

 そんなことを思わせる、笑みであった。
 牙蟲が軽く頭を振る。

 マリーツァがこの村を訪れたときは、全く雰囲気が変わっていたからだ。
 出会ったばかりのマリーツァは、容姿は美しかったものの、人間味の欠片も感じられないような『お堅い』雰囲気であったのだ。
 精巧に作られた、金属製の造花のような女だった。

 それが、今では過剰なまでに婀娜めいている。
 理由は単純なもので、牙蟲がマリーツァを抱いたからであった。

「あれではジーニーかアルプだ……。可哀相な男が引っ掛からんよう、手綱を頼むぞ、アルタリ」

 牙蟲が溜息混じりに少女に依頼する。
 望まれた少女は、心なしか頬を上気させ、力強く頷いた。

「お任せを、我が主」

 アルタリが返答するのと、隊商を組んだ自由商人が出発を告げるのとはほぼ同時であった。
 名残惜しそうにマリーツァは牙蟲に熱っぽい視線を向け、不意に、蠱術師と唇を重ねる。

「……おい」
「餞別です。それぐらいは頂いてもよろしいでしょう?」

 夜な夜な聖職者を誘惑する、魔性のものに似た表情で、マリーツァが抜け抜けと言った。
 収まらないのは、すぐ傍らにいたアルタリである。
 小さな背丈を精一杯伸ばして、牙蟲の首筋に吸い付く。

「お前もか」
「餞別」

 澄ましてアルタリが答える。
 そして、朝から集まっていた亜人とリザードマンの見送りに手を振り、二人の修道女は村を後にしたのであった。
 無論、牙蟲はセタとノヤの二人に、別れ際の餞別に関して色々と詰問されたのだが。

 それから数週間は、平穏な日々が続いていた。

 亜人の村が存在するのは、大陸中央からは東夷と称されている地域である。
 大陸自体は前肢しか持たない海亀のような形をしており、その右鰭に当たるのがこの地域であった。

 鰭の付け根辺りに亜人の村はあり、そこから東に進めばタブロタ、更に行けば神聖ヴェーラ、スニエークといった国と出会う。
 タブロタは山が多く、街道が未発達なため、地方の独立性が高い国だ。
 複数の領域君主による、緩やかな共同体と言った所だろうか。

 神聖ヴェーラは、聖三位教会の大司教が王位にある宗教国家である。
 大陸全土で信仰されている聖三位教は、国家と社会に隠然たる影響力を持つが、何より重要なのはこの国がタブロタとスニエークの中継点であることだ。

 スニエークは広大な平野を持つ国で、東夷の食糧流通の半分を担っている。
 その際に遣り取りされる物と金は、必ず神聖ヴェーラを介していたのだ。
 当然のように神聖ヴェーラは関料や通行税を徴収し、国庫を膨らませていた。

 神聖ヴェーラは東夷に於いて、富と宗教的権威の二つの力を所有していたのである。
 しかし、昨今、その状況に変化の兆しが現れていた。

 三国の北部には峻険な山々が連なっているが、そこを通る新たな交易路が開発されつつあったのだ。
 それを画策したのは、黒旺と牙蟲である。
 黒旺は北部の山岳地帯を支配しており、神聖ヴェーラを迂回した通商を実現しようとしたのだ。

 無論、交易路を造り上げるには莫大な金が必要である。
 それを黒旺と牙蟲は、自由商人を巻き込むことで解決した。

 交易路としての新たな街道の開拓などは、どう考えても分の悪い博打であったが、当たれば途方もなく大きい。
 自由商人はそれに乗ったのである。
 亜人の村が、遍歴職人や自由商人の受け入れに積極的であったことも要因の一つではあっただろう。

 貧弱ながらタブロタとスニエーク間の流通が開始されると、商人は二つのものを手に入れることとなった。
 程々の利益と、確固たる自負心である。

 そもそも自由商人や遍歴職人は、都市や街のギルドから弾かれた存在であった。
 当時の未発達な市場では、流浪する職人を受け入れる余地などなかったのも事実であるが、彼らが疎外されていたのも確かである。
 言わば日陰者であった彼らが、神聖ヴェーラを必要としない交易を開始することで、主流と対峙する精神的な拠り所を持つことになったのだ。

 このことは、実際に遣り取りされる物品の量や金額以上に神聖ヴェーラの危機感を煽った。
 自国を必要としない経済圏の確立を歓迎する為政者など、当然いない。
 神聖ヴェーラの王にして、東夷に於ける聖三位教の指導者である大司教は、何頭もの早馬を使いに出していた。

 争乱の黒雲は、確かに亜人の村に近付きつつあり、そして、それを察するだけの嗅覚を有するものが、村にはいたのである。

 半分になった月が、少し傾いていた。
 その月明かりに照らされた村の一角にある、何の変哲もない土壁の家で、男とリザードマンが差し向かいで酒を呑んでいた。
 ガラスのない窓から、月光が静かに部屋に染み込んでくる。

 夜の大気が涼やかであった
 昼間でも、風の中に秋の訪れを感じることがあるような日が多くなっている。

 男は灰色の瞳に、刃のような光を宿していた。
 右眼がしっかりと閉じられている。

 牙蟲であった。

 普段通り、司祭が纏うコープに似たマントを羽織っている。
 異形の右腕はマントの下に収められており、見えなかった。

 向かいに座しているリザードマンは、黒々とした鱗の持ち主だ。
 闇を劫火で溶かして、精錬したかのような鱗である。

 その鱗の下に、隆々とした筋肉の束がうねっていた。
 沼沢に棲息する大型の爬虫類のような棘や突起が、顎や首から伸びている。

 リザードマンの首魁たる、黒旺であった。

 種族特有の巨体に、他を圧する存在感がある。
 惚れ惚れするほどに鍛えられた体躯の持ち主であり、歴戦を経た大剣の如き風格を具えていた。

「タブロタで兵が動いているようだな」

 黒旺が、村で醸されたエールを口に運びながら言った。
 この所の景気を反映してか、きっちりと濃い味のするエールである。

「何処で知った?」

 牙蟲が茶飲み話のような風情で尋ねる。

「村に来た楽師の一団がな、そう言う噂があると言ってきたのさ」
「ほう」
「山に潜ませたオレの部下からも同じ報告が届いた。どうも、神聖ヴェーラにせつかれたようだな」
「ふふん」

 面白そうに、牙蟲が笑う。
 エールで満たされた杯を仰ぐ。

「タブロタに回す食糧を制限するとでも言ったんだろうよ。黒旺領の道はまだまだ貧弱だから、タブロタとしては従うしかないな」
「……黒旺領?」
「何だ、知らんのか。皆、そう呼んでいるぞ」

 牙蟲の言葉に、黒いリザードマンが面倒そうに鼻を鳴らす。
 自分が居城を構える山岳一帯を余人がどう呼称しているのか、気に留めていなかったらしい。

「オレはイスティナに仕えている。ヴェリクレスト領と呼ぶべきだな」
「周囲はそう思わん。実効支配はリザードマンの戦闘力に依っているし、お前はその頭領だからな」

 イスティナ・ヴェリクレストは、黒旺の元に降嫁した先王の娘である。
 政略ではなく、現在の王の低劣な嫌がらせが切欠で、黒旺とイスティナは結ばれることとなった。

 とは言え、リザードマンと姫君の仲は決して悪くない。
 それを思い出し、牙蟲が少々意地の悪い表情を見せる。

「ま、実態は幼い姫様の尻に敷かれている訳だが」
「妙な物言いをするな」
「姫さんから手紙が来て、慌てて櫛やら宝石やらを買って送っていただろう。似合わん詩を付けてな」
「君主を気遣うのは騎士の役目だ。オレはそれを果たしただけだ」

 仏頂面で言う黒旺であったが、牙蟲の表情は笑いを噛み殺していた。
 ち、と舌打ちして黒旺が再び酒を口にする。

「お前とて、亜人二人に追いかけ回されていただろうが。教会の女以外にも手を出したのか」
「む」

 今度は、牙蟲が防戦に回る番であった。

「出しとらん」
「しただろう。若い娘と婚約したと聞いたぞ」

 ぐ、と牙蟲が言葉に詰まる。
 口の端を吊り上げて、人間臭い表情を黒旺が作った。
 皮肉っぽい笑みである。
 牙蟲が反撃を試みた。

「若い娘と言うが、五つか六つのガキだぞ。子供のおままごとに付き合っただけだ」
「セタとノヤはそう思わなかったな。ご機嫌取りに旨い飯を作ってやったそうだが、お前も芸がない」
「うるせえ」

 拗ねた少年のような表情と声で、牙蟲がそっぽを向く。
 くく、と声を漏らして黒旺が牙蟲の杯にエールを注いでやった。
 それを横目で見た牙蟲が、むっつりとした顔のまま、黒旺の杯に酌をする。

 互いに、同じタイミングで酒を呑んだ。
 ふう、と酒精の香る息を吐く。

「戯れ言はこれぐらいとしてだな」
「ふん」
「タブロタの兵が、どれ程の規模になるかが問題だな」

 至極、尤もな黒旺の言葉を受けて、牙蟲が暫し黙考する。
 徐ろに口を開いた。

「四、五千といったところだろうよ」

 確信を持った口調である。
 黒旺が訝しげな視線を向けると、心得たように牙蟲は言葉を続けた。

「自由商人経由でな、馬具やら糧食やらの取引を追い掛けていたのさ。そこからの予測だが、ま、それほど外してはいないだろうよ」

 成程、と黒旺は頷いた。
 言葉を更に紡ぐ。

「村から出せる兵は、四、五百か」
「無理をしてそれぐらいだろう」

 村の人口は順調に増加しており、既に千人に届こうとしていた。
 当時、村落の人口は四百から六百の間ぐらいが平均であり、それを考えれば亜人の村はかなりの規模である。

 だが、結局は村止まりであり、主要な施設は未だ存在しないか、貧弱なものであった。
 例えば革製品や鋳物の工房などはなく、肉やパンを専門に扱う店もない。
 公的な施設としては、大衆浴場が村の真ん中にあったものの、それとて、夏の暑さに耐えかねた牙蟲が作ったものだ。

 食糧だけは間に合っていたが、それも、膨れ上がった人口に追い立てられるようにして、死に物狂いで周囲の荒野を開墾した結果である。
 これからが収穫の季節であることを考えると、戦争という極めて非生産的な事業に、人手を無制限に出すわけにはいかなかった。

 また、村が戦場となれば、実りを迎えた畑を荒らされることになる。
 つまりは、打って出なければならないと言うことであった。

 その為に出せる亜人の兵の内、二百は以前に星章騎士団との戦闘を経験した者である。
 そこに、リザードマンとの教練に耐え抜いた者を足して四百ぐらいが妥当だろうと、牙蟲も黒旺も考えていた。

「黒鱗騎士団からは、どれ程出る」
「八百だ」

 黒旺が答える。
 歴戦の古兵であるリザードマンが八百とは壮観であろうが、しかし、それでも亜人と足して千二百にしかならない。
 タブロタの動員数を四千としても実に三倍以上の戦力差であった。

 兵法の定石からすれば、不利どころの話ではなく、敗北は決まったようなものである。
 牙蟲と黒旺が、一様に黙り、そして口を開いた。

「目はある」
「勝ち目がないわけではない」

 期せずして唱和し、蠱術師とリザードマンは目を見合わせる。
 牙蟲が口の端を吊り上げ、黒旺が鋭く息を吐いた。

「何処に付け込む」

 尋ねたのは黒旺である。

「まずは、奴らの数だ」
「ふむ」
「五百や千なら兎も角、五千というのがタブロタの枷だな」

 意外なことを牙蟲は言った。
 しかし、黒旺は反論しない。
 練達のリザードマンの戦士も、同じ事を考えていたらしい。

「タブロタには五千の兵を常備している領主などいない。今回の兵は複数の領域君主が召集したものだろう」
「うむ」
「では、この五千の兵をどの君主が率いるか、だ」
「揉めるだろうよ。序列や権威には格別に拘る連中だからな」

 黒旺の言い方には、実感が籠もっていた。
 無数の戦場を往来してきた上での実体験でもあるのだろう。

「だろうな。対して、こちらの指揮官は百戦錬磨のリザードマンの騎士、黒旺様だ。その統率力とカリスマはタブロタの比ではない」
「神算鬼謀の蠱術師殿も控えているしな」

 大げさな言い方の牙蟲に、黒旺が遣り返す。
 牙蟲は顔色を変えることなく、小さく笑った。

「そう言うことだ」

 抜け抜けと言い放つ。
 更に続ける。

「戦闘集団としての質も、こちらが勝っている。タブロタの兵は互いのことを何も知らんが、俺たちは何百回と教練を繰り返してきた。取れる戦術の幅が全く違う」
「とは言え、数的劣勢は事実だ。どう補う」
「こんな手はどうだ?」

 言って、牙蟲が身振りを交えて戦場での兵の動きを説明する。
 黒旺が意見を加え、牙蟲が修正し、戦術を練っていく。
 勝利を得るためであった。

 夜が更け、そして朝を迎えた。

 進軍のための準備が、翌日から村を挙げて整えられていった。
 行軍に参加する亜人とリザードマンを選定し、装備を整え、糧食を用意する。
 タブロタへ向け、亜人とリザードマンの混成部隊が発ったのは、一週間の後であった。

 行軍が、続いている。
 幾つもの軍旗を高々と掲げて進んでおり、全ての旗の中で一体の竜が踊っていた。
 三本の指と、蝙蝠に似た翼を持った竜である。
 長い胴を持った漆黒のその竜は、雲を突き抜けるほどの巨大な山に、自分の身体を巻き付けていた。

 黒鱗騎士団――。
 リザードマンは自らをその様に名乗っており、この竜の紋章こそが、黒鱗騎士団の徴であった。
 この旗幟のお陰か、道中、この行軍を阻むものは見えない。

 隊列は先頭と殿をリザードマンが務め、中央にいるのは亜人と驢馬であった。
 驢馬が牽いているのは、パンや乾し肉、水を乗せた荷車である。 
 
 向かっているのは村の遙か東、首落としの野と呼ばれる傾斜地だ。
 タブロタの軍も、ここを目指しているはずである。

 と言うより、タブロタから亜人の村に向かうにはここを通るしかないのだ。
 北は峻険な山並みに阻まれ、南から回り込むには他国の領土を突っ切る必要がある。
 最も安全な進路が、この物騒な名の土地を通ることであった。

 なだらかな丘陵が続く道である。
 周囲には狗尾草や露草が繁茂していたが、その緑の中に、既に枯れて茶色い部分がぽつりぽつりと見えた。

 踏み締める地面から、舗装されていない石の感触が伝わってくる。
 道の幅は、一頭立ての荷馬車が余裕を持って擦れ違えるほどの広さであった。
 左手にはゆっくりと流れる小川が見え、遠くには名前の分からない小さな鳥が、高い声で囀っている。

 天に雲は少なく、吸い込まれそうな青が只広がっていた。
 多少は和らいだとは言え、降り注ぐ日差しは強く、暑い。
 ちょっとした散歩に格好の日和であった。

 しかし、歩んでいるのは武装した一軍である。
 亜人たちは長槍を担ぎ、革の鎧を身につけ、上からマントを羽織っていた。

 長槍は村に来る職人に造らせた代物で、亜人の身長の倍ほどもある。
 革鎧は、油で煮込んで固めた獣皮を使ったものだ。
 造り自体は単純だが、手甲も脚甲も揃っている。

 一方のリザードマンは、防具に関しては軽装であった。
 上半身には何も身に付けてないか、手甲を嵌めているぐらいである。
 脚衣を穿き、グリーブを装着しているものもいるが、簡単に布切れで下半身を覆い、膝から下を露出しているものも多い。

 盾はラウンドシールドかバックラーといった小型のものが多く、腰に帯びているのはシミターが目立った。
 しかし、中にはそれ以外の得物を携えているものもいる。
 氷と雪で覆われた凍土のような、青白い鱗で覆われたリザードマンが、その一例であった。

 背負っているのは、恐ろしく巨大な剣である。
 亜人の持っている長槍と比べても、遜色がないほどの刀身であった。
 柄も、広刃剣などで見られる配分からするとかなり長く、そこから更に、刃の付いていない刃根本が伸びて、刀身に繋がっている。
 両手剣と分かりやすい名称で呼ばれるが、大きさも重さも桁外れの金属の塊を、気楽な風情でそのリザードマンは担いでいた。

 巨漢揃いのリザードマンの中にあって、更に頭一つ分、背が高い。
 名を、氷甲というリザードマンであった。
 頭の天辺から背中の方向に、氷柱のような鋭い角が三列になって並んでいた。
 悪い冗談のように巨大な剣の先端が、歩く拍子に合わせて揺れている。

 長い隊列の先頭付近を、氷甲は歩いていた。
 隣には馬を引いている牙蟲がいる。

 村を襲った騎士から逆に牙蟲が奪った馬なのだが、新しい主人に対して非常に従順であった。
 背には、糧食や水の入った革袋が乗せられている。

 牙蟲は普段と変わりない格好であった。
 司祭が纏うコープに良く似たマントを羽織っており、右眼は固く閉じられている。
 日差しの中の行軍だというのに、疲労の色は見られなかった。

「なあ、牙蟲よ」
「何だ」

 歩きながら、氷甲が牙蟲に声を掛ける。

「村でやった時には、蠱術を使ったんだろ? 今回は無しか」
「同じ手は無理だな」

 氷甲の問い掛けに対する、牙蟲の答えは簡潔なものであった。
 爬虫類そのものの瞳を尖らせ、氷甲が質問を続ける。

「何で?」
「相手が多すぎる。土地に縁も無いしな」

 術を成立させるには対象の心理を掌握する必要があるが、数が増えれば単純にその難度は上がる。
 加えて、村で牙蟲が使った蠱術は、そこで暮らす亜人の感覚や心情を利用したものであった。
 これから向かう首落としの野で、同様の術は使えないのである。
 説明を受けて、氷甲が素朴な疑問を口にした。

「他の手なら使えるのか?」
「まあ、色々と用意はしているさ」
「そいつは楽しみだ」

 氷甲が頷く。
 そして、蠱術師とリザードマンは行軍を続けたのであった。

 十日後、黒鱗騎士団は戦場となるであろう、首落としの野に到着した。
 太陽が頭上に輝き、ほぼ無風の状態である。
 季節が一月ばかり戻ったかのように、蒸し暑かった。

 首落としの野は北に傾斜地を臨む、岩と白い砂が目立つ荒野である。
 羊歯や苔が張り付くようにして地面と岩を覆っており、忘れられた墓標のように松がぽつぽつと立っていた。

 数千人の軍勢を展開するのに、充分なだけの広さがある。
 実際、遙か前方には、騎馬と歩兵から成る軍勢が待ち受けていたのであった。

 タブロタの軍である。
 牙蟲と黒旺が予測したとおり、複数の領主が掻き集めた兵であった。

 四人の領域君主の手勢である。
 フラピェーニエ、スピナー、カマール、フリューゲルの四人であった。

 この時、首落としの野に集められたタブロタの軍は、四千八百余名であったという。
 対する黒鱗騎士団と亜人は、千二百を僅かに越えた程である。
 戦力差は、実に四倍であった。

 指揮を執るのはフラピェーニエである。
 理由は経歴でも戦場での能力でもなく、最も多くの兵を動員したからであった。

 フラピェーニエ自身は、この首落としの野に来るまでに馬を二頭潰している。
 何故なら、フラピェーニエが非常な肥満体であったからだ。

 鞍の上に座ることさえ難しく、特別製の輿を馬上に設えていたほどである。
 そのため、馬への負担が大きくなってしまったのだ。

「うむ、我が軍容の見事な事よ。この戦、一瞬で終わりそうだな」

 フラピェーニエが、後方に陣取りながら言った。
 我が軍容、などと表現する辺り、この男の認識が滲み出ている。

 でっぷりとした体型のこの男は、実に派手な格好をしていた。
 まず目に付くのは、その頭に被っている帽子である。
 南方の鳥の羽が何十枚と重ねられており、ちょっとした動きに合わせて、蝶の羽根のように揺れていた。

 身体に合うものがないのか、体力がないのか、鎧は身につけておらず、チュニックの上にサーコートを羽織っていた。
 チュニックの袖には、無数の切り込みが入っており、下の原色の生地が覗いている。

 真っ赤に染められたサーコートは、縁が金糸で飾られていた。
 そこに、フラピェーニエ家の紋章が、大きく縫い込まれている。

 鷲の頭と獅子の胴体を持った怪物の図像だ。
 五彩の糸で、その怪物は刺繍されているのである。
 鎧姿の他の君主と比べて、恐ろしく目立つ扮装であった。

「フラピェーニエ公、油断召されるな」

 面当てを上げたフリューゲルが窘める。
 フリューゲルは四人の君主の中で最年少であったが、武者修行として各地を転戦したことがあり、実戦経験は豊富であった。

 日に焼けた肌に、実直そうな面持ちの青年である。
 眉が太く、目は小さく、鼻は大きい。
 貴族的な容貌というより、片田舎で畑でも耕していそうな顔立ちであった。

 全身鎧に、細長いカイトシールドを持ち、馬上槍を脇に抱えている。
 カイトシールドには、家門の紋章であろう百合の花が、図像化されて刻まれていた。

「我々が相手をするのは、中央で最も恐れられたリザードマンの軍勢です。また、亜人たちも騎士団を撃退したとのことではないですか。危険な相手でしょう」

 この諌言に対するフラピェーニエの反応は、咽せたような笑い声であった。
 弛んで何重にもなった顎が震えている。

「フリューゲル公は、若いのに心配性であるなあ」

 そう言って、自分たちの眼前に並ぶ兵たちを指さした。

「物見の報告によれば、敵の数は千と少しとのことではないか。対する我らは二千の騎兵と三千に届く歩兵を擁している。トカゲがどれ程の武勇を誇ろうとも、物量で押し潰せばよいのだ」

 自信たっぷりに言い放った。
 脇に控えていた二人の領主、スピナーとカマールも同ずる。
 二人とも、フリューゲルと似た装備であったが、腰から下げているのは広刃剣であった。
 スピナーの盾には獅子の紋章が、カマールのものには水を吐く魚の図が見える。

「その通り。小細工など必要ありませんぞ。ただ前進するだけで、算を乱して敗走する様が目に浮かびます。そこを討てばよいのです」
「亜人などと言う劣等種を抱えた奴らに勝ち目などありますまい。今頃、大軍を前にして己の愚行を悔いているでしょうな」

 明らかに見下した発言であったが、事実の一端を指摘してはいた。
 同じ頃、五千に近い兵を認めた亜人の間では、不安げな囁きが交わされていたのである。
 有り体に言えば、圧倒的な戦力差から来る不安が彼らを蝕みつつあったのであり、放置すれば恐慌にまで発展するだろう。

「亜人が動揺しているぞ」

 タブロタ軍の向かい側で、牙蟲が告げる。
 相手は、夜のような鱗を持ったリザードマンだ。

 そこにいるだけで、他者を圧倒せずにはいられない存在感を有している。
 巨体の輪郭に沿って空気がうねっているようであった。
 黒旺だ。

 巨大なハルバードを、黒旺は手にしていた。
 大力で知られるリザードマンでさえ、二体掛かりで運ばねばならないほどの重量を誇る代物だ。

 黒旺の一族に代々伝わる武器であった。
 リザードマン特有の尖った瞳を、黒旺が更に細める。

「当然だろう。オレたちには見慣れた光景だが、亜人には脅威だろうからな」
「冷静な分析なんぞいらん。煽るなり鎮めるなりしろ」

 牙蟲が言うと、漆黒のリザードマンが息を吸った。
 ごう、と吼える。

 大気が震え、それは対陣するタブロタ軍の将兵にまで届いた。
 フラピェーニエが馬上の輿からずり落ちたほどである。

 亜人の耳目が、黒旺に集中した。
 一軍の意識を充分に浴びながら、黒旺は落ち着いたものである。
 意外にも穏やかな口調で、リザードマンは語り始めた。

「恐ろしいか、目の前の兵士が」

 良く通る声であった。
 亜人がざわめく。

 圧倒的な戦力差を前に、浮き足立った自分たちが責められるとでも思ったのであろう。
 だが、黒旺の態度には苛立ったところは見受けられなかった。
 淡々と言葉を続ける。

「何を恐れるのだ、貴様らは。たとえ、あそこに十万の軍がいたとて物の数ではないぞ。何故なら、奴らの中にリザードマンと戦ったものは一人としておらんのだからな」

 長槍を構えた亜人たちの顔を、黒旺が順番に見ていく。

「忘れたか、我らとの教練を。地獄のような鍛錬の日々を。貴様らはそれに耐えた。貴様らは既に一端の兵だ」

 リザードマンの長たる黒旺の言葉に、亜人たちのざわめきの質が変わった。
 確かに、ここにいる亜人は過酷な練兵を経た者ばかりである。

「敢えてここで問おう。目の前に陣取る奴らの目的は何だ。何のために奴らは戦場に来た?」

 尋ねるが、答えられる者は亜人の中には居ない。
 無論、黒旺も返答を期待したわけではなかった。

「名を成すためだ」

 簡潔な物言いである。

「家門のため、名誉のため、奴らはやって来たのだ。では、貴様らは何のために戦場に来た?」

 自分の発した言葉が亜人に浸透するのを待つように、黒旺は間を置いた。
 徐に口を開く。

「故郷のためだ。違うか? 村の風景を思い出すことだ。自分たちを見送った者たちの顔を思い出すことだ。貴様らは唯一無二の故郷のために戦う。己の帰るべき場所のために、貴様らは血を流す」

 ざわめきが消えた。
 自分たちが生まれて初めて得た真っ当な暮らしを、誰もが思い出していた。
 故郷の光景が、痛いほど胸を刺す。

「何を恐れるのだ、貴様らは。一人前の兵士である貴様らが、何者を恐れる必要があるのか。槍を、掲げろ」

 静かに、黒旺が命じる。
 陽光を反射して、槍の穂が一斉に天を突いた。

「この一戦の後、貴様らは首落としの野の勇者と呼ばれるだろう。征くぞ」

 黒旺がタブロタ軍の陣へ向かう。
 駆けるのでもなく、慌てるのでもなく、堂々と向かっていく。
 その後に、長槍を高々と上げた亜人が続いた。

「見事なもんだ、流石は騎士団を率いるだけのことはある」
「刃を交える前から見事も何もあるまい。命を晒すのはこれからだ」

 真横に控えていた牙蟲に、黒旺が冷静に返す。
 牙蟲が、切り口のような笑みを浮かべた。

「確かに」

 牙蟲がマントを撥ね上げ、閉じていた右眼を開く。
 赤光が放たれた。

 牙蟲の右眼が、常人の倍以上に開かれている。
 その眼窩の中で、真っ赤な三つの瞳が動き回っていた。
 人のものとは異なった、昆虫の単眼じみた瞳である。

 コープの下から露出した右腕は、歪で、怪異で、巨大であった。
 全体を板金のような外殻に覆われ、角や牙と見紛うような突起が、肩や肘から伸びている。

 肘から先が長く、地面に触れそうになっていた。
 指は三本しかなく、ある種の生物の顎を思わせるほどごつく、先端が鋭い。

 人の姿ではなかった。
 牙蟲が叫んだ。

「始めるか!」

 血の色をした光が、牙蟲の右眼から滲む。
 そして、戦いが始まった。

 中天に位置する太陽がぎらぎらとした光を投げ掛ける荒野を、二つの軍勢が進む。
 一方は二千の騎兵と三千近い歩兵である。
 対するは、四百の亜人と八百のリザードマンである。

 タブロタ軍の陣形は、大陸で最も一般的なものを採用していた。
 即ち、中央には横陣を組んだ歩兵が何列も並び、両翼を騎兵が固めるという陣である。
 騎兵は既に領土を持つ貴族であり、歩兵は立身を夢見る貴族の三男以下が多かった。

 そして、この時のタブロタ軍歩兵は十列の横陣を敷いており、つまり、一列だけで三百人近い兵がいることになる。
 二列の兵で亜人の兵数を上回り、四列で黒鱗騎士団と亜人の総数に匹敵するのだ。

 フラピェーニエが勝利を確信していたのも無理からぬ事であった。
 どの様な時代であれ兵力差は勝敗を分ける重要な要素だが、当時の大陸では絶対視さえされていた。

 最初に歩兵が正面からぶつかって戦線を形成し、次に騎兵が突撃を掛けて相手の陣を崩す――。
 これが、大陸における殆ど唯一の戦術だったからである。

 牙蟲が黒旺に語った通り、大規模な常備軍を持たぬ国が多く、複雑な戦術を立案してもそれを実行できる戦闘集団が存在しないというのが、要因であった。
 また、騎士の価値観として堂々たる戦いを称賛する余り、軍法や知略を軽視する風潮もあったのである。

 だからこそ、タブロタ軍は勝利を疑わず、進軍を続けた。
 距離が狭まるにつれ、亜人の隊が動きを見せる。

 四百の亜人が、左右に分かれていったのである。
 丁度、両翼に控える騎兵に向けて、二つに分かれた亜人の部隊が向かう形となった。

 動きが速い。

 升で量ったかのように、きっちりと二百人ずつに分かれた亜人が、騎乗した兵に向かっていく。
 通常ならあり得る事ではなかった。

 徒で進む歩兵にとって、騎兵は天敵である。
 互いの速度差が問題なのではない。
 重武装した騎兵は並足で走るのが限界であり、それは徒歩の二倍ほどの速さである。

 騎兵の持つ歩兵への優位性は、その衝力と巨大なものに対する原初的な恐怖心にあった。
 全身に鎧を身に付け、鋼鉄製の剣や槍を持って迫る騎兵の突進を前に、平静を保てる歩兵など滅多にいない。
 自分の重量の数倍に達するものが迫ってくるという単純な事実が、地面を歩くしかない兵士を蹴散らすのである。

 だが、そんな恐怖など微塵も感じていないように、亜人たちは馬上の貴族に向けて進んでいく。
 一様に槍の穂先を構えており、隊列を乱すこともない。
 見事な動きであった。

 もしこの時、上空を飛ぶ鳥の視点を借りたなら、整然と凹型を成した陣が、長方形の陣に向かっていくのが見えただろう。
 凹型の突きだした部分が、亜人たちである。

 タブロタ側の歩兵に動揺が広がった。
 何故なら、亜人が分かれた先にはリザードマンの一軍が控えているからである。

 剣を交えた経験がなくとも、対峙したリザードマンの戦闘力が想像できない兵などいない。
 人を遙かに超える体躯と魁偉な容貌は、余りにも恐ろしかった。
 リザードマンを相手取るより、亜人に向かいたいと兵の大部分が思ったのも道理である。

 タブロタの歩卒が、騎馬に向かっていく亜人を追った。
 しかし、本来なら前進して相手に圧力を掛け続ける陣形のため、タブロタ軍の移動は亜人ほどスムーズではない。

 寄せ集めの軍であり、意思の疎通が困難であったことと、密集した隊形を採っていたことも災いした。
 混乱が、生じる。

 それでも、身を立てることを願う貴族子弟の意地か、亜人の側面にタブロタ軍歩兵は確実に迫っていく。
 好機と見て、騎兵も速度を上げた。

 正面からは騎兵が突進し、側面を歩兵が押し上げる。
 その様な形になる筈であった。

 亜人の反応は素早い。
 騎兵を前にした亜人が、素早く密集隊形を作った。
 長槍を前方に向け、人馬の動きを制する。

 歩兵に迫られた側では、三人一組に分かれてタブロタ軍との間合いを取った。
 タブロタの兵は、多くが広刃剣の遣い手である。
 距離を保てれば亜人に有利であり、接近できればタブロタ軍に有利であった。

 そして、距離を維持するために亜人は散兵となったのである。
 亜人が開けた空間に侵入したタブロタ兵は、四方から繰り出される長槍によって強かに打撃を被った。

 一方の騎兵も、身動きが取れない。
 亜人の槍衾を前に、攻めあぐねていたのである。
 歩兵にとって駆ける騎馬が脅威であるように、騎兵にとって微動だにしない槍の穂先は厄介であった。

 普通なら軽く威圧するだけで逃げ惑っていた歩兵が、断固たる態度で人馬を迎え撃とうとしている。
 それが分かるからこそ、騎兵は動けなかった。

 実際に突撃して、亜人が散じればいい。
 だが、踏み止まったなら?
 その時は騎兵の持つ衝力が、槍の穂先に集中して自分に返ってくることになる。
 動けない。

 驚くべき光景が、両翼で繰り広げられていた。
 左右に分かれた四百の亜人が、眼前に展開する二千の騎兵と側面の三千の歩兵を圧倒していたのである。

 リザードマンとの徹底した訓練の成果であった。
 地域ごとに召集された兵であり、連係に欠けるタブロタ軍では不可能な用兵である。

 元々、リザードマンは中央で何百年と戦い続けており、用兵術の蓄積は人間の比ではなかった。
 その知識と技術を、亜人は学んでいたのである。
 
 動揺と混乱が、後陣に控えるフラピェーニエたちにも伝わってきた。
 しかし、具体的なことは分からない。
 各部隊にいる伝令も、僅か四百の亜人に、五千に近い味方が足止めされている現状を、理解できなかったのだ。
 只、戦況が順当でないことは感じられる。

「態勢を立て直すべきでは?」

 フリューゲルが心配げな表情を作り、言う。
 だらしなく崩れた身体を揺らしながら、フラピェーニエは頭を振った。
 帽子を飾る鳥の羽が、ゆらゆらと上下する。

「状況の分からぬまま、徒に兵を動かすべきではない。当初の予定通り、数で相手を押し潰すべきであろう」

 無策とも取れる発言であったが、間違いではない。
 人数が多い分、下手に指令を発しては、混乱に拍車を掛けることになりかねないからだ。
 現実問題として、柔軟な指揮が可能なほど自軍の練度が高くないという点もある。

「何、奴らの主力であるリザードマンの数は八百。対する我らは五千の兵ですぞ。六人がかりで一匹のトカゲを倒せば良いだけのことでしょう」

 板金鎧で身に包んだスピナーが、楽観的な発言をする。
 金銀が象眼されたその鎧は、神経質なほど磨き上げられ、ぎらぎらと陽光を反射していた。

「そう簡単にいけばよいのですが……」

 フリューゲルは納得のいかぬままである。
 しかし、打てる手がないこともこの青年騎士には分かっていた。

「恐らく、亜人かリザードマンが何か策を弄したのでしょう。こちらの数が多く、慢心もあっての行軍の乱れでしょうな。暫し待てば、吉報が届くでしょう」

 カマールが存外に冷静な分析を披露する。
 実態は正しく、その通りであった。

 亜人たちが見せた統一された行動は、曲芸じみた用兵術であり、敵兵の恐怖心と警戒心を利用したものである。
 騎兵と歩兵を相手取るに、有効性の高い戦術ではあるものの、数的な不利は確固として存在していた。
 このまま事態が経過すれば、亜人の奮闘もタブロタ軍の圧倒的物量に呑み込まれていただろう。
 事実、散兵となった亜人は歩兵に側面から押され、槍衾を形成していた亜人もじりじりと後退していた。

 僅かな時間、亜人はタブロタの進軍を止めたに過ぎない。
 だが。
 それこそが、亜人の目的であった。

 タブロタの兵がてこずっている間に、その一団は肉薄していた。
 全身を鱗で覆われ、戦場で鍛え上げられた巨躯の持ち主たち。
 八百のリザードマンが、タブロタ軍歩兵の眼前に辿り着いていたのである。

 中央の先頭にいるのは、当然のように黒旺であった。
 その脇には、血光を放つ三つ目と、大蛇のような怪腕を露わにした牙蟲が居る。
 漆黒の鱗が、ぬらりと陽を反射した。

 亜人に向かっていた歩兵が、今度こそ恐慌を来す。
 だが、既に遅かった。
 黒旺の刃を退くことも避けることも出来ない間合いである。

 兵士が顔色を失い、その動きを止めた。
 途轍もなく巨大なハルバードを、黒旺が振り翳す。

 禍々しいまでの殺傷力が、そこには秘められていた。
 水平に薙ぎ払う。

 ごう、と風が鳴り、真っ赤な血煙が蒼空を染めた。
 戦場に、真紅の旋風が出現する。
 血風逆巻く嵐の中心は黒旺であった。

 ハルバードの刃が届く範囲にいた人間が、悉く胴を両断され、血と臓物を撒き散らしながら吹き飛んだのである。
 消し飛んだ、と言って良い。
 黒旺の桁外れの膂力と、法外な巨大さを誇るハルバードが成した、圧倒的な殺戮であった。

 領域君主のスピナーが先刻発した言葉を、無論、黒旺は知らない。
 だが、六人掛かりで一体のリザードマンを倒せばよいという言葉を聞いたなら、黒旺は答えたであろう。

『ならば、我ら一体で六人の兵を殺せばよい。容易いことだ』

 黒旺のハルバードの一振りは、六人どころか、十人以上のタブロタ軍歩兵を真っ二つにしていた。
 小枝でも担ぐように、軽々とハルバードを構え直す。

「とんでもないな」

 隣にいた牙蟲が呆れたように呟く。

「化物だ……」

 実に正当な評価をし、タブロタ軍の歩兵が後退りした。
 黒旺が率いるリザードマンと、タブロタの兵士との間にみるみる距離が生じていく。

「仲間を見捨てていくのか。可哀相に、奈落の底で睨んでいるぞ」

 耳の奥に響く、低いくせに奇妙なほど徹る声で牙蟲が言った。
 嫌でも注目せざるを得ない、甲虫じみた右腕で地面を示す。
 そして、兵士は『それ』を見た。

 ついさっき、恐るべき黒鱗のリザードマンによって両断された兵が自分の足元にいて、じっとこちらを睨んでいる。
 上半身だけになった身体で、ひっくり返り、口からは血の泡を吹き出しながら、睨んでいるのだ。
 遠くへ吹き飛んだはずなのに、何故かすぐ傍にいて、しかも自分の足首をしっかりと掴んでいるのだ。

「うわあああああ!」

 絶叫が上がった。
 複数の叫びが、次々と伝播して混乱と喧噪が拡大していく。
 只でさえ揺らいでいた士気が、完全に崩壊した。

 逃げ出す。
 相手を押し退け、我先にタブロタの兵が敵前から逃げ出していく。
 貴族の血統が多く、前線で留まることが栄誉と富貴に繋がるタブロタ軍歩兵には珍しい現象であった。

「蠱術か」

 鋼で出来た、破壊の象徴の如きハルバードを肩に乗せ、黒旺が牙蟲に問う。

「まあな。兵の魂魄が浮いたところに付け込んだのさ」

 観客が気付かない間に、種を仕込む手妻遣いの表情を浮かべて、牙蟲は答えた。
 三つの単眼が、敵前にも拘わらず、脇目も振らずに逃げていくタブロタの兵を見ている。

「この機を逃すわけには行かんぞ」
「無論だ」

 簡潔に、黒旺が答えた。
 戦線が崩れたとは言え、それは、タブロタ軍の一部に過ぎない。

 戦力差が四倍であるという事実は変わらないのだ。
 手を休めるような余裕はない。

「畳み掛ける」

 鬨の声を上げ、次々とリザードマンがタブロタ軍に襲い掛かっていった。
 逃げ惑うタブロタの兵を、リザードマンの振るう刃が確実に仕留めていく。
 血飛沫が吹き上がり、断末魔の叫びが絞り出された。

 それが混乱と動揺を一層掻き立て、軍全体へと伝播する。
 錯綜する状況の中、タブロタの陣形は横に広がりつつあった。

 リザードマンによって中央から押し出された歩兵が、左右に逃れていったのである。
 この為、両翼に展開していた騎兵に混乱が生じた。
 横から来た自軍の歩兵と隊列が雑じり合い、身動きが出来なくなったのである。

 先行していた亜人が、横に膨張したタブロタ軍の、更に側面へと回り込んだ。
 体勢を立て直そうとしていた騎馬を、長槍で牽制する。
 混乱に拍車が掛かったところへ、両翼のリザードマンが突き進んだ。

 右翼の先陣を務めているのは、永久凍土の色合いをした鱗を持つリザードマン、氷甲である。
 悪夢から抜け出たかのように巨大な両手剣を手にしていた。

 元来、両手剣の役割は、長槍で武装して密集陣を組む歩兵を崩すことである。
 そのために発達したのが、常人では扱うのが困難なほどに長く伸びた刀身であった。
 大陸に於いて、失われて久しい戦術のための武器である。

 氷甲が、無頓着と言って良い気軽さで、騎馬と歩卒が交じった一群に向かった。
 乱れた陣ながら歩兵は武器を構え、騎兵が馬上槍を持ち直す。
 合わせるように、氷甲も歩みの速度を速めた。

「よ!」

 緊張感の感じられない声色と共に、氷甲が両手剣を振り上げた。
 ごう、と大気を割る盛大な音を立てて、切っ先が天を向く。

 剣先の軌道に沿って人の肉体が軽々と宙を舞った。
 胴が半分に千切れ、空中に臓物を撒き散らしながら、タブロタ歩兵が絶命する。
 血腥い狼煙が、戦場の空を赤く染めた。

 氷甲の背後に続いていたリザードマンが、タブロタの軍勢と衝突する。
 無数のシミターと広刃剣が陽光を反射して、昼間の戦場に星が降りたかのようだった。
 忽ち、血臭と臓物のにおいが広がる。

 リザードマンのシミターが、逃げ惑う歩兵の腕を斬り飛ばした。
 突進する騎馬を、人馬纏めて氷甲の両手剣が両断する。
 肉と血で出来た柱を立てながら、氷甲が率いるリザードマンの軍勢は猛然と進んでいた。

 尋常の速度ではない。
 五千人近い兵力を擁するタブロタ軍は、人員の損害もすぐさま補充できるはずなのだが、その回復力を凌駕する進軍であった。

 この進軍速度を支える原動力となったのは氷甲である。
 単純な戦闘力の強大さもさることながら、このリザードマンが討つ対象に大きな理由があった。

 どの様な集団や動物の群れであれ、そこには多数を導く主格の存在がある。
 四人の領域君主によって駆り集められた兵士は殆ど組織化されていなかったが、それでも、十人単位の部下を独立して率いている人間が何人も存在した。
 これは自然発生的なものであり、兵士たちの生存への願望が、命を預けるに足るリーダーを選んだのである。

 青白い鱗を持ったリザードマンは、そう言った統率者の立場にある人間を一目で見抜き、優先的に撃破していったのだ。
 理や論からではなく、本能的な直感がもたらしたものである。
 これにより、只でさえ連係に欠けるタブロタ軍は戦線の維持が困難になり、下がるしかなくなったのであった。
 
「相変わらず先走っているな、氷甲め」

 同じ頃、左翼を率い、先頭でタブロタ軍と剣を交えていたリザードマンが呟いていた。
 曇天のような灰色の鱗に全身を覆われており、両肩に稲妻のような黄金の紋様が走っている。
 見事な角が一本、額から高々と伸びていた。

 雷角という名のリザードマンである。
 右腕でラウンドシールドを構え、左手に握っているのはシミターであった。
 リザードマンの体格に合わせたその三日月刀は、人間が使うものより遙かに刀身が長い。

 雷角が睨んでいるのは、正に、氷甲が猛然と突き進んでいる方角であった。
 通常なら、戦端が開かれれば戦場の状況を完全に把握することなど不可能である。
 戦況は常に変化し続けており、それを正確に伝達する手段など存在しないからだ。

 所謂、戦場の霧と呼ばれるものである。
 しかし、雷角は剣戟が聞こえる角度や怒号の声量、戦塵の移動などから、戦野をある程度の確度を持って俯瞰することが出来るのであった。
 一種の異能である。

 その異才によって、雷角は氷甲が率いる右翼が突出していることを察したのだ。
 リザードマンの右翼が、タブロタ軍の左翼を貫通するのも時間の問題だろう。

 この快進撃自体は、悪いことではない。
 しかし、余りに急速な進軍は、討ち漏らした戦力を放置することになりかねなかった。
 生き残ったタブロタ騎兵が混乱から立ち直り、リザードマンや亜人の後背を衝くことも考えられる。
 リザードマンと交戦して恐怖心を擦り込まれた人間が、そんなにも早く立ち直れるかは疑問であったが、不安要素は出来るだけ潰しておきたかった。

 雷角が方策を考えている間にも、次々とタブロタの兵は雄叫びを上げて突っ込んでくる。
 慌てた様子もなく雷角が踏み込んだのは、先頭を走っていた完全武装の騎兵に向かってであった。
 動きが相手の加速するタイミングと完全に重なっていて、一瞬で間合いが詰まる。

 馬上の騎士へ雷角がシミターを振るうと、ひゅん、と風が抜ける音がした。
 驚いた騎兵が、手綱を引っ張って軍馬を制止しようとするよりも一拍速く、雷角がシミターの刃を返す。
 騎兵の腕の動きと、シミターの刃の軌跡が、完全に一致した。

 するり、と冷たい刃が騎士の手首を擦り抜ける。
 手綱を握ったままの人間の腕が切り離されて、だらりと垂れ下がった。

「ぐがっ」

 騎士が苦痛に耐えかねて声を上げ、馬は鞍上の指示が途切れたことに戸惑い、取り敢えず走り出す。
 軍馬が通り過ぎた後から聞こえる悲鳴を背中で聞き流し、雷角は落ち着いてタブロタの兵に向き直った。
 リザードマンの種族に独特な尖った瞳に、鎧姿の歩兵たちの姿が映る。

 突き進む兵の群れに、雷角は落ち着き払って歩を進めた。
 その動きに躊躇いがない。

 瞬きするほどの間に、既に刃が届く距離に入っていた。
 しかも、相手からは剣の振るいにくい、盾を持っている側を占めている。
 焦った兵が広刃剣を掲げるのと、その手前に雷角が刃を置いたのは同時であった。

 剣を振り下ろすべき空間を、先に雷角のシミターに奪われてしまい、タブロタ兵士の動きに戸惑いが現れる。
 それを見逃す雷角ではない。
 一見、緩やかにさえ思える滑らかさで、雷角のシミターが振り下ろされた。

 三日月刀の刃が、タブロタ兵の膝を断つ。
 丁度、グリーブの装甲に覆われていない箇所であった。
 動きを止めることなく、雷角が駈ける。

 雷角の巨体が疾風のようにタブロタ兵の間を縫って通り抜けた。
 交叉した後には、手脚が斬り飛ばされて血煙と供に宙を舞い、地に墜ちる。

 慣れた演目を舞う役者の様に、雷角の動きには無駄がなかった。
 一度か二度、抜き身のシミターが翻るだけで、相手に致命傷を与えるのである。
 武装した者同士が相対したときに予想される反応や、牽制に対する反射を雷角は完全に見抜いていた。

 十人近くが雷角によってあっさりと倒され、そこへ他のリザードマンが雪崩れ込む。
 左翼の陣だけで見れば、数の優位はタブロタ軍に未だあったが、戦線は膠着状態に陥っていた。

「石視!」  
 
 雷角が声を上げて、別のリザードマンの名を呼んだ。
 のっそりと背後に現れたのは、アスピスと呼ばれる盾と、鎚矛で武装したリザードマンである。
 アスピスはラウンドシールドの一種で、盾の中央に円錐形の突起があるのが特徴だ。
 手にした鎚矛は先端が子供の頭部ほどもあり、三角形をした分厚い鉄片が放射線状に繋ぎ合わされている。

 防具らしいものは盾以外には身に付けておらず、穿いているのは単純な造りの脚衣であった。
 水晶を含んだ岩のような鱗が体表を覆い、遠目には鉱物の塊のように見える。

「腕の立つ奴を、何体か連れて右翼に行け。氷甲の『食い残し』を始末しろ」
「承知」

 雷角が出した指示の意図を一瞬で理解し、石視が頷いた。
 心得たもので、巨岩のような体躯のリザードマンに複数の影が付き従う。
 右翼の後陣に向かった石視を視界の端に収めながら、雷角はシミターを構え直した。

 先行しがちな氷甲だが、適切な支援があればその破壊力は絶大である。
 後は、ここで戦線を維持していれば、中央の黒旺がタブロタの陣を貫くだろう。
 多少は討ち漏らしがこちらに回ってくるかもしれないが、その程度はいつものことであった。

 しゅう、と雷角が息を吐く。
 眼前の敵兵には悪いが、戦局は雷角の知る定跡通りに進んでいた。
 無論、勝利を確信した瞬間に敗北することなど、戦場ではありふれた話である。
 確固たる結果を引き出すため、油断することなく、雷角は眼前の敵兵に向かっていった。

 怒号と悲鳴が、首落としの野に響く。
 金属と金属が衝突する音、硬いものが砕ける音、柔らかいものがぶちまけられ、粘性のある液体が降り注ぐ音が絶え間なく続いていた。
 血と吐瀉物、臓物と汚泥の混じったにおいが戦野に渦巻いている。

 黒旺が率いる主力が、タブロタ軍中央の横陣を散らかしていた。
 草を刈り取るかのように、十列に及ぶ歩兵を次々と撃破していく。

 タブロタ軍は急速に崩れつつあり、陣形を保つことさえ難しくなっていた。
 右翼はほぼ潰走しており、左翼は雷角によってその場に釘付けになっている。

 そして、遂に。
 遂に、黒旺が先陣を切るリザードマンがタブロタ陣営を貫いた。

「何だ、何がどうなっているのだ?」

 視線を泳がせながら、フラピェーニエが周囲に喚き散らす。
 眼前に、異形の集団が迫っていたからだ。

 金属光沢を放つ鱗。
 隆々とした筋肉を誇る体躯。
 爬虫類特有の、棘や角を持った怪異な容貌。
 リザードマンが、怒濤のように押し寄せてくる。

「ひぃ!」

 女のような悲鳴を上げて、スピナーとカマールが馬の首を巡らせた。
 重たい盾が邪魔なのか、家門が象嵌されたカイトシールドを投げ捨てる。

「ま、待て! わたしを置いていくな!」

 フラピェーニエが叫んで止めようとするが、馬を走らせる二人には届かない。
 届いているのかも知れなかったが、そうであっても、馬を止める気配はなかった。

 だが、見る間に小さくなっていく人馬に、それ以上の速度で何者かの影が近付く。
 一体のリザードマンだ。

 くすんだ緑の鱗に包まれ、二本の角が額から伸びている。
 上半身は裸で、黒い脚衣を石の嵌った革帯で留めていた。

 盾は持っていない。
 代わりに、両腕にジャマダハルを握っていた。
 ジャマダハルは短剣の一種だが、形状はかなり特殊である。
 刀身の根本から二本の棒が平行に突き出て柄となっており、その間を握りが渡されている。
 刃が三つ叉に分かれていた。

 強靱な筋肉に包まれた体躯を躍動させ、リザードマンは地を蹴り続ける。
 疾駆する人馬に軽々と追い付くと、一際強く大地を蹴って、驚くほどの跳躍を見せた。
 スピナーの頭上を取り、不可視の速さでジャマダハルの刃を横薙ぎに振るう。

 じゃっ、と音がして、スピナーの首が撥ね飛ばされた。
 ジャマダハルの刃が金属製の喉当てごと脊髄を切断し、噴水のような血飛沫が高く上がる。

「ひ、ひ、ひっ」

 それを見たカマールが、引き付けを起こした赤ん坊のような声を上げて、馬の腹を蹴る。
 しかし、馬も限界であったのか、それ以上速度が上がることはなかった。
 それでもリザードマンとの距離は確実に開いていく。
 白い骨の断面を見せながらスピナーの首が地面に落ちるのと同時に、緑の鱗を持つリザードマンが地に降り立つ。
 
「戦場で背を向ける指揮官など、不要」

 リザードマンが言って、左腕を振り下ろした。
 ジャマダハルが一直線に飛び、逃げている最中のカマールの背中に狙い過たずに突き刺さる。
 刃先は貫通して胸から覗いていた。
 その勢いでカマールの体が半回転し、螺旋状に血を撒き散らしながら馬から落ちる。
 派手な音を立てて地に落ちた時には既に、カマールは絶命していた。

 護衛の筈であった騎士や歩兵は、既に混乱の極みにあった。
 指揮官である二人の領域君主が逃げ出し、しかも、あっさりと討ち取られたのである。

 海を割って進む古の預言者のように、リザードマンの統率者たる黒旺が悠々と歩みを進めた。
 肥大した巨体を輿に載せたフラピェーニエは、狼狽して視線を左右に彷徨わせているだけであった。
 
 軍馬の嘶きが黒旺に耳に届く。
 一人の騎士が、フラピェーニエと黒旺の間に割って入った。

 フリューゲルである。
 馬上槍を構え、拍車で乗馬の腹を蹴った。

 面当てを下ろしているため表情は見えないが、突進する速度に断固とした決意と使命感が込められている。
 人馬一体となってフリューゲルが黒旺に迫った。
 口の端を僅かに開き、漆黒のリザードマンが呼気を漏らす。

 ごう、と颶風と共にハルバードが一閃した。
 フリューゲルが構えていた馬上槍と、黒旺が振り抜いたハルバードの斧刃が衝突する。
 激しい金属音と火花を撒き散らし、馬上槍が弾かれた。

 並の技量であれば、そのまま、馬上槍は跳ね飛ばされていただろう。
 だが、フリューゲルは馬ごと身体を捻って、ハルバードの衝撃を逸らすことに成功した。
 間合いが開く。

「名を聞こう」

 静かな口調で、黒旺が尋ねる。
 落ち着いていながら、凡百の人間が頭を垂れざるを得ない威圧感が、その声にはあった。
 フリューゲルが、その威圧感に耐えながら、口を開く。

「フェルマを始祖に持つ、ピェトゥーフの子、フリューゲルだ」

 その返答に、黒旺が手にしたハルバードを捧げるように翳す。

「応竜が一子にして、イスティナ・ヴェリクレスト第一の騎士、黒旺」

 言い終えて、先に動いたのは黒旺である。
 風に漂う煙のような淀みない動きで、間合いを詰めた。

 騎兵に猶予を与えては、再び突進を仕掛けられるからである。
 本来なら、馬上にいる兵と歩兵では、高さやリーチと言った点で、騎兵の方が有利だ。
 だが、黒旺の巨体と、長大重厚なハルバードを前にしては、その利点は機能しない。
 接近されれば、小回りの効かない騎兵は劣勢を強いられるばかりなのだ。

「くっ」

 フリューゲルが、馬上槍の突きを素早く繰り出す。
 しかし、それは黒旺のハルバードに遮られ、加熱された金属片を宙に撒き散らすばかりであった。
 休むことなく、フリューゲルは槍を振るい続ける。

「筋は悪くない」

 黒旺はそう言って、何度目かのフリューゲルの突きを防いだ。
 ハルバードの鉤の部分で槍の穂先を受け、絡め捕る。

「だが、非力だな」

 手元を捻った。
 めき、と硬いものが外力によって破壊される音がする。
 鋼で出来ている槍が、飴細工のようにへし折れていた。

 ぐ、とフリューゲルが唸り、馬上槍を取り落とす。
 槍が折られたときに、手首も痛めてしまったらしい。
 ハルバードの鋭利な刃が、フリューゲルの喉元に突きつけられる。

「ここで死ぬか、それとも降るか。選べ」

 黒旺の言葉は、名乗りを上げたときと変わらず、落ち着いている。
 他者の生死を握りながら、それを微塵も重要視していなかった。

 そのことが、ハルバードの切っ先から伝わってくる。
 死への恐怖より、敵に降る屈辱より、黒旺の無関心こそがフリューゲルの心を折った。

「降伏する……」

 重病人の吐息のような声で、若い騎士が言う。
 既に、フラピェーニエは豪勢な輿から引き摺り下ろされている。
 必死の形相で命乞いをしていた。

 実質、この瞬間にタブロタ軍の敗北は決したのも同然であった。
 とは言え、戦場には残敵が点在しており、彼らは自軍の将が討たれ、捕らえられたことを知らない。

 手早く牙蟲が、周辺のリザードマンにフラピェーニエのサーコートを引き剥がすよう指示する。
 派手な刺繍が施されたサーコートの生地が切り裂かれた。

 馬上の輿も外されて、同じようにばらばらにされ、スピナーとカマールが落とした盾も割られる。
 しかし、粉々にされるのではなく、元が分かるほどには形が残っていた。

 何体かのリザードマンが、それを高く掲げ、叫ぶ。
 フラピェーニエを捕らえたこと、スピナーとカマールが討たれたこと、フリューゲルが降伏したこと。
 タブロタ軍は既に敗れたと、大きく叫んだ。

 辛うじて生き残り、抵抗を続けていたタブロタ兵の間に、動揺が広がっていく。
 派手な刺繍が施されたサーコートや、砕かれた盾を持ったリザードマンの存在が、タブロタ軍の士気を挫いた。

 何故なら、名を上げて騎士に取り立てられるか、更なる領地の安堵を目的に、彼らは戦っていたからである。
 それには、フラピェーニエを始めとする四人の領域君主に己の戦功を認められることが必須であった。
 しかし、四人の君主が捕虜となるか、敗死したとなれば、戦功も何もない。
 特に、死亡したスピナーとカマールの配下は明らかに戦意を喪失していた。

 揺らいでいた士気が大きく綻び、戦場を駆けるリザードマンの姿に打ちのめされた。
 まるで、冷水を浴びせ掛けられたように、闘志が萎えていく。

 真っ先に逃げ始めたのは、タブロタ軍の歩兵であった。
 土地や俸禄と言った、実利を求めて戦っている彼らにとっては当然の行動である。

 そもそも、リザードマンの脅威に終始晒されていたのは彼ら歩卒であった。
 逃げ出せるものなら逃げ出したいというのが、本音であったろう。

 歩兵が潰走してしまうと、騎兵も戦場に留まることは出来ない。
 護衛する歩兵あっての騎兵なのだ。
 生き残っていた兵士が、算を乱して敗走していった。

 戦いが、終わる。

 傾いた太陽が、中天と地平線の間に浮かんでいた。
 四人の領域君主の内、二人が虜囚となり、二人が逃亡しようとして討たれたことから、首落としの野の屈辱と呼ばれる戦は、こうして幕を閉じたのであった。

 後世において、この戦いはタブロタの命運を決定付けたとされている。
 タブロタで最大の財力を持つフラピェーニエと、最も豊かな実戦経験を積んだフリューゲルが捕らえられたことは、その国力を大きく減じさせる原因となったのだった。

 しかし、それが明確になってくるのは、もう少し後のことである。
 勝者であれ、敗者であれ、戦いの後にはやるべき事が山積するものであり、その中で遠くを見通す余裕を有している者はごく少数なのであった。

 この戦いで黒鱗騎士団の戦死者はなく、負傷者さえ僅かである。
 一方の亜人は、何人かが命を落とし、数十人が重傷を負っていた。
 亡骸はその場で埋められ、僅かな私物が遺品として纏められる。
 負傷者は驢馬の牽く荷車に乗せられるか、即席の担架で運ばれることとなった。

 岩の上に腰掛けながら、黒旺は撤退の準備をする亜人やリザードマンを眺めている。
 この一戦の結果は、亜人にとって正規の騎士団を撃滅した記念碑となるだろう。
 数千人規模の野戦に勝利したことは、亜人に更なる自信と意志を与え、その戦闘力を底上げするに違いない。

 一方のリザードマンにとっては、勝利そのものは慣れたものであり、何が変わるというものではない。
 常と異なると言えば、それが亜人との共闘の結果である点だ。
 元より、リザードマンの亜人に対する認識は悪いものではなかったが、それが更に質を変えたものになるだろうと、黒旺は踏んでいた。

 さて、そこからどんな手を打つか。

 巨大なハルバードを肩に担いだまま、黒旺が地平線の向こうに視線を遣る。
 タブロタへと続く道が見えた。

 リザードマンの口の端が、笑みの形に吊り上がる。
 それは、獲物を見付けた捕食者の表情であった。


                                                了 

 


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-モドル-